第五章 五日目−永い夜・其の一−
部屋をほのかに灯す炎が、風にあおられて揺れる。
犬の遠吠えすら聞こえない静寂の中で、源三と新吉は言葉を交わさず、部屋の中央で提灯をはさんで座っていた。
あれから四半刻もかからず診療所へついた一行に、良庵は嫌な顔一つせずに対応してくれている。
京香は、暗示をかけられた際に使われた薬を特定するために、良庵に預けられた。
おみつの傷口を縫うために、康太が手術を行っている。
「姐さんの暗示は……解けたのか?」
提灯の炎を見つめたままで、新吉が訊ねてきた。
「ああ。おみつが、命がけで解いてくれた」
思いもかけないことだったのか。妹の名を聞いた新吉の目が、源三を見た。そして。
「……あいつが今、心から信用してるのは、康太と姐さん、それに先生くらいのもんだろうな」
まるで自分の考えの中に沈むように、視線を落とす。
『じいちゃんも母さんも私を裏切った』
伝兵衛の屋敷でおみつが口にした言葉が、脳裏に浮かぶ。
「おみつは、小太郎殿にも裏切られたようなことを話していたが、それは……」
新吉へ問いかけた言葉をかき消すような足音が、こちらへ近づいてくる。
やや乱暴に襖を開ける音がした。
「……父上」
血相を変えた天膳が、忠直を伴って入ってくる。
「二人の具合はどうじゃ?」
いつになく質素な、薄い茶色の着物に同色の羽織をまとった天膳が、新吉の横へ座した。
源三が二人の今の状態を話すと、新吉が一本の短刀を横へ滑らせる。
「これは……」
「おみつからの預かりものです。自分は戻れないけど、姐さんは必ず戻るから、と」
天膳のしわだらけの手が、短刀をつかむ。
「あんな少女に……辛い思いをさせてしまったの」
天膳が、思いを封じ込めるように目を閉じる。何があっても動じない兄も、ただならぬ父の様子に目を伏せた。
獣の遠吠えが、遠くに聞こえた。
どれくらいの時がたっただろう。
また、足音が近づいてきた。入口に、皆の視線が集中する。
「康太……」
「大丈夫。傷口の縫合はうまくいったし、意識も戻ったよ」
血に染まった白衣を脱ぎながら告げた康太の言葉に、張りつめていた空気が一気に和んだ。
表情を変えずに見つめていた新吉が突然立ち上がる。
「おい、お前どこに行くんだよ?」
廊下へ出ようとする新吉の腕を、康太がつかむ。
「おみつに、会わせなきゃいけない人がいるんでな」
今度は康太の目をしっかり見つめて、新吉が部屋を出た。
「誰だ? 会わせなきゃいけない人ってのは」
背中を見送った康太をはじめ、天膳も忠直も首をかしげる。
「恐らく……小太郎殿であろう」
「小太郎さん?」
康太が驚いたように、源三を振り返る。
「小太郎殿は、何もわからず江戸へ出てきた孫娘に、その理由と経緯を話す義務がある」
おみつの『裏切った』という言葉が真実ならば、なおさらだ。
新吉は恐らく、小太郎が今、どこで何をしているのかの察しがついているのだろう。
納得したようなしないような表情で、康太がうなずいた。その時。
「いずれ……そなたらにも話さねばならぬだろうな」
腕を組み、天膳が小さなため息をもらす。
「父上……」
忠直の表情が、険しいものへと変わった。
再び張りつめた空気を助長する足音が、またこちらへ近づく。
「良庵先生」
康太に無言で座るように促し、その横に座った良庵が口を開く。
「京香殿に使用された薬は、大麻ではないかと思われます」
「大麻っていえば、あまり依存性はないんですよね?」
薬草に詳しい康太が、良庵に訊ねる。
「はい。しかし短期間にかなりの量の大麻を吸わされているようで、徐々に症状が現われているようです」
阿片が切れた際の中毒症状は、修行中に見たことがある。
自身を保っていられなくなり、薬を欲しがるかと思えば、辺りにあるものを突然投げつけて暴れていたように記憶している。
その光景を思い浮かべた源三は、唇をかんだ。
京香はこれから、地獄の苦しみに耐えなければならないのか――。
「苦しみに耐えかねて、自害する可能性もあります。恐らく今夜が山かと」
良庵の低い声とともに、重苦しい空気が、辺りを包む。
「良庵先生。一晩……私がそばについていてはいけないでしょうか?」
思い切って、源三は申し出た。
何の力にもなれないとわかってはいるが、京香を、たった独りで苦しみの中に置いておきたくはない。
「しかし」
「良庵先生。この人は、ずっと近くで京香を見守って来た人間です。もしかしたら、彼女の抑止力になってくれるかもしれない。お願いします」
難色を示す良庵の背中を押すように、康太が頭を下げてくれる。
「良庵。わしからも頼む。今、京香を死なせるわけにはいかないのだ。彼女を救うために傷を負った、一人の少女のためにも」
天膳に続き、忠直も無言で頭を下げる。
「……辛い一夜になりますぞ。それでも構いませぬか?」
良庵の真剣な眼差しが、源三を見つめる。
その疑問を払拭するように、源三は、良庵の目を見てしっかりとうなずいた。 |