花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜(85/87)PDFで表示縦書き表示RDF


花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第五章 五日目−永い夜・其の一−


 部屋をほのかに灯す炎が、風にあおられて揺れる。

 犬の遠吠えすら聞こえない静寂の中で、源三と新吉は言葉を交わさず、部屋の中央で提灯をはさんで座っていた。

 あれから四半刻もかからず診療所へついた一行に、良庵は嫌な顔一つせずに対応してくれている。

 京香は、暗示をかけられた際に使われた薬を特定するために、良庵に預けられた。

 おみつの傷口を縫うために、康太が手術を行っている。

「姐さんの暗示は……解けたのか?」

 提灯の炎を見つめたままで、新吉が訊ねてきた。

「ああ。おみつが、命がけで解いてくれた」

 思いもかけないことだったのか。妹の名を聞いた新吉の目が、源三を見た。そして。

「……あいつが今、心から信用してるのは、康太と姐さん、それに先生くらいのもんだろうな」

 まるで自分の考えの中に沈むように、視線を落とす。


『じいちゃんも母さんも私を裏切った』


 伝兵衛の屋敷でおみつが口にした言葉が、脳裏に浮かぶ。

「おみつは、小太郎殿にも裏切られたようなことを話していたが、それは……」

 新吉へ問いかけた言葉をかき消すような足音が、こちらへ近づいてくる。

 やや乱暴に襖を開ける音がした。

「……父上」

 血相を変えた天膳が、忠直を伴って入ってくる。

「二人の具合はどうじゃ?」

 いつになく質素な、薄い茶色の着物に同色の羽織をまとった天膳が、新吉の横へ座した。

 源三が二人の今の状態を話すと、新吉が一本の短刀を横へ滑らせる。

「これは……」

「おみつからの預かりものです。自分は戻れないけど、姐さんは必ず戻るから、と」

 天膳のしわだらけの手が、短刀をつかむ。

「あんな少女に……辛い思いをさせてしまったの」

 天膳が、思いを封じ込めるように目を閉じる。何があっても動じない兄も、ただならぬ父の様子に目を伏せた。

 獣の遠吠えが、遠くに聞こえた。



 どれくらいの時がたっただろう。

 また、足音が近づいてきた。入口に、皆の視線が集中する。

「康太……」

「大丈夫。傷口の縫合はうまくいったし、意識も戻ったよ」

 血に染まった白衣を脱ぎながら告げた康太の言葉に、張りつめていた空気が一気に和んだ。

 表情を変えずに見つめていた新吉が突然立ち上がる。

「おい、お前どこに行くんだよ?」

 廊下へ出ようとする新吉の腕を、康太がつかむ。

「おみつに、会わせなきゃいけない人がいるんでな」

 今度は康太の目をしっかり見つめて、新吉が部屋を出た。

「誰だ? 会わせなきゃいけない人ってのは」

 背中を見送った康太をはじめ、天膳も忠直も首をかしげる。

「恐らく……小太郎殿であろう」

「小太郎さん?」

 康太が驚いたように、源三を振り返る。

「小太郎殿は、何もわからず江戸へ出てきた孫娘に、その理由と経緯を話す義務がある」

 おみつの『裏切った』という言葉が真実ならば、なおさらだ。

 新吉は恐らく、小太郎が今、どこで何をしているのかの察しがついているのだろう。

 納得したようなしないような表情で、康太がうなずいた。その時。

「いずれ……そなたらにも話さねばならぬだろうな」

 腕を組み、天膳が小さなため息をもらす。

「父上……」

 忠直の表情が、険しいものへと変わった。

 再び張りつめた空気を助長する足音が、またこちらへ近づく。

「良庵先生」

 康太に無言で座るように促し、その横に座った良庵が口を開く。

「京香殿に使用された薬は、大麻ではないかと思われます」

「大麻っていえば、あまり依存性はないんですよね?」

 薬草に詳しい康太が、良庵に訊ねる。

「はい。しかし短期間にかなりの量の大麻を吸わされているようで、徐々に症状が現われているようです」

 阿片が切れた際の中毒症状は、修行中に見たことがある。

 自身を保っていられなくなり、薬を欲しがるかと思えば、辺りにあるものを突然投げつけて暴れていたように記憶している。

 その光景を思い浮かべた源三は、唇をかんだ。

 京香はこれから、地獄の苦しみに耐えなければならないのか――。

「苦しみに耐えかねて、自害する可能性もあります。恐らく今夜が山かと」

 良庵の低い声とともに、重苦しい空気が、辺りを包む。

「良庵先生。一晩……私がそばについていてはいけないでしょうか?」

 思い切って、源三は申し出た。

 何の力にもなれないとわかってはいるが、京香を、たった独りで苦しみの中に置いておきたくはない。

「しかし」

「良庵先生。この人は、ずっと近くで京香を見守って来た人間です。もしかしたら、彼女の抑止力になってくれるかもしれない。お願いします」

 難色を示す良庵の背中を押すように、康太が頭を下げてくれる。

「良庵。わしからも頼む。今、京香を死なせるわけにはいかないのだ。彼女を救うために傷を負った、一人の少女のためにも」

 天膳に続き、忠直も無言で頭を下げる。

「……辛い一夜になりますぞ。それでも構いませぬか?」

 良庵の真剣な眼差しが、源三を見つめる。

 その疑問を払拭するように、源三は、良庵の目を見てしっかりとうなずいた。







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