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花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第五章 五日目−覚醒−


「おみつ!」

 意識を失ったおみつの身体から、京香の胸に身を預ける形で力が抜けた。

 源三はとっさに、京香の膝先に置かれたおみつの手を取り、脈があるのを確認する。

「…………い?」

 突然、所在なさげな京香の声が源三の耳をかすめた。

「……あおい?」

 あおい?

 意味がわからずに反芻した源三の脳裏に、幼子の泣き顔が浮かんだ。

 京香を慕い、ともに脱走した夜に、何らかの理由で命を落とした少女。

 彼女の心は今どこを……いや、どの時代を彷徨っている?

「違う京香! その子は葵ではない!」

 京香が顔を上げた。しかし源三を見つめる目はまるで、行き先を失った小さな子供のようだ。

 源三はとっさに、京香の頬を強く叩いた。

「戻って来い! 京香」

 風魔でもなく、葵を喪ったあの夜でもなく、源三と、仲間たちの元へ――。 

 頬を押さえ、しばし動かなかった京香だが、再び、ゆっくりと顔を上げる。

「先……生」

 京香が、久しぶりに源三の通り名を呼んだ。

 見上げてくる瞳にはいつもの穏やかな光が戻り、京香が闇から脱出したことを物語る。

「そうだ、俺がわかるか」

 ぎこちなくうなずく京香の肩に手をまわし、こみ上げる想いをじっと(こら)える。

「この子は……」

 京香が再度、視線を落とした。源三はそっと、彼女からおみつを引き離す。

「……おみつさん!」

 京香が、源三の腕の中で目を閉じるおみつを見つめた。

「どうして……」

「お前が殺したも同然だ。なぁ、京香さんよ」

 京香の言葉をさえぎるように、忌々しい声が源三の背後から聞こえた。

 振り返るとそこには、腕や頬に傷を作った平沼が、肩で息をしながら立っている。

「私……が?」

 平沼を見上げた京香が突然、顔をゆがめて頭を押さえた。

「京香! 大丈夫か!?」

 激しくせき込む京香の肌からは血の気が失せ、額には冷たい汗が浮かんでいる。

「そろそろ薬が切れたようだな。暗示が切れたお前さんにはもう用はねぇし……あんたともども、あの世へ行ってもらおうか」

 下卑た笑みを浮かべた平沼が、悠然と刀を振り上げる。

(この二人だけは……俺が守る!)

 源三は京香の腕を引き、おみつともども守る形でその場に伏せる。

 しかし、平沼が振り下ろすであろう刃は源三に届かず、重い荷物が倒れるような衝撃が、源三に伝わった。

 体を起こし振り返る。

 すると、逆袈裟に振りぬいた形で腕を上げた、一人の男の足元に、脇から首筋までを裂かれた平沼が、目を開けたままで絶命していた。

「遅くなってすまなかったな、先生」

 平沼を斬った男が、こちらを見下ろす。

「……新吉、そなた、どうして」

 問いかける源三には答えず、新吉は襲いかかってきた忍びの首筋に刃を滑らせた。

「ぼさっとしてんなよ。まだ終わってねぇだろ」

 おみつを京香の隣に横たえた源三は、近くに落ちていた平沼の刀を取り、示現流の「満」の形をとる。

「引け! 引けーー!」

 何者かが叫び、残った浪人、忍びらが一斉に表へ飛び出す。

 外には何十人もの手錬がいる。きっと、何人かでも捕らえてくれるだろう。

 隅に固まっていた芸者衆を、捕方が廊下へ連れだすと、辺りは静寂に包まれた。

「先生!」

 部屋の外にいた康太が、血相を変えて源三の元へ駆け寄る。

「てめぇ、今までどこに行ってた!」

 傍らにいる新吉へ掴みかかろうとするが、結った髪を乱した忠直に止められる。

「今はそれどころではあるまい。一刻も早く、京香とおみつの手当てをせねば」

「ここから近い診療所はどこだ? 康太」

「ここだと……どんなに近くても良庵先生のところだぜ」

 康太が、京香を抱き上げた源三の問いに慌てた様子で答える。

「よし、案内してくれ」

 うなずいた康太が、おみつを抱き上げようと膝を折る。しかし、横から入る形で、新吉がおみつの腕を自らの首に回し、そのまま背負った。

「新吉」

 驚いた顔の康太を見ずに、新吉が最初に廊下へと出る。

「源三、俺は幕閣の方々を送り届け、上様に報告せねばならん。二人を頼むぞ」

 忠直も、新吉の後を追うようにしてこの場から立ち去る。

「康太、林殿はどうした?」

「わからねぇ。おみっちゃんを追って中へ入った時にはぐれちまった」

 軍太夫の安否も気にかかるが、今は、京香とおみつの命を優先しなければ。

「行くぞ、康太」

 死体が転がり、あちこちに血しぶきが飛び交う辺りを見回す康太を促し、源三も部屋を後にした。







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