花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜(83/87)PDFで表示縦書き表示RDF


花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第五章 五日目−悪夢・其の四−


 京香の持つ短刀が、飯沼の首筋―急所に当たっている。

 あの場所を斬られれば、出血が止まらなくなり、飯沼はすぐに命を落としてしまうだろう。

 源三も、隣の忠直もなすすべがない。

「さんざん邪魔をしてくれたようだがな、これでもう終わりだ。まさか吉宗も、自らが組織した人間に腹心を殺されるとは、思いも寄るまい」

 平沼の言葉が、源三の怒りに火をつける。

「勝手なことを申すな! 自らの所行を棚に上げて上様に逆恨みし、幕府転覆のために、いたいけな少女を利用しようと企むとは……許せん!」

「吠えるのもそれまでだ。やれ!」

 平沼が叫ぶ。

 同時に呼子笛の音が高らかに鳴り響き、外がにわかに騒ぎだす。

(――のるかそるか!)

 平沼の注意がそれたのを見た源三は、そばにあった杯をとり、京香に向けて、強く投げた。

 手首に当たった反動で、京香の手から短刀か落ちる。

「飯沼様!」

 忠直が叫ぶ。

 飯沼は京香を突き飛ばして刀を手に取り、立ち上がる。

「おのれ!」

 飯沼に襲いかかる刃を、駆けつけた忠直が払いのける。

 再度、二人の刃が、激しい音を立ててぶつかりあう。

 そのまま部屋の隅へと移動した二人の陰から、一人の芸者が姿を現す。

「……京香」

 源三は息をのむ。

 こちらを見た京香の目は鋭く、今にも斬りかかってきそうな殺気をたたえている。

 手を伸ばせば、取り戻せるのに。

 夜明け前に感じた恐怖とはまた違ういやな予感に、源三の足は再びすくむ。

「私はずっと……この時を待っていました」

「何?」

 目をそらし、かすれた声でつぶやく京香に、源三は問う。

「私とあの人の人生を狂わせた幕府に復讐する……この時を」

 再度こちらを向くと同時に、京香はかんざしを源三に振りかざした。

 自身を守るために出した手の甲を、生温かい液体がすべり落ちる。

「京香……」

 暗示が強い分、ためらいなく襲いかかってくる京香の動きは、いつもより数段早い。

 次々と襲いかかってくるかんざしの先をよけるだけで精いっぱいで、彼女の動きを封じるすべは見当たらない。

 鋭い痛みが、今度は頬に走った。

 頬の血をぬぐい後ずさりする源三に、一歩、また一歩、京香が近づいてくる。

 やはり、だめなのか?

 京香への暗示を解き、生きて取り戻すことは不可能なのか――。

 源三の胸に、絶望感がよぎったその時。

「やめて! お姐さん!」

 おみつが、自身と京香の間に割って入る。

「おみつ!」

「先生、あきらめちゃ駄目だよ」

 まるで自身の心を見通したかのようなおみつの言葉が、源三の心を打つ。

「お姐さん」

 おみつが、京香に向き直る。

「ごめんね。私のせいでお姐さんをこんな目に遭わせちゃって」

 京香の動きが、止まった。

 今まで、怒りの色をたたえていた目で、おみつを凝視する。

「でも……お姐さんのいるべき場所は、ここじゃないんだよ」

 ゆっくりと、おみつの背中が京香に近づく。

「先生と、兄さんと、康太さんが……ううん。おじいちゃんや忠直様だって、みんな待ってる」

 おみつが、京香の手からかんざしを取り上げた。そして。

「だから、帰ろう?」

 おみつの日に焼けた手が、京香の白い肌を包む。

「……紀州に?」

 思いがけない京香の言葉に、源三は驚く。しかしおみつは動じることなくうなずいた。

「そう。みんなで紀州に帰ろう。ね」

 やや背の高いおみつを、京香がまるで子供のような目をして見上げた。

 しかし。

「おみつ! 京香!」

 京香の背後に近づく浪人を見た源三は思わず叫んだ。

 動きを止めたままの京香をかばったおみつの背を、浪人の刃が斬り裂く。

「おみつ!」

「おみっちゃん!」

 源三が叫んだ直後、部屋に入ってきた康太がその浪人の脇から逆袈裟に斬り抜いた。

 さらに襲いかからんとする浪人、忍びに相対する形で、康太が再び廊下へ出る。

 痛みに顔をゆがめ、くず折れるおみつを受け止める形で、京香もその場に座り込む。

「おみつ! しっかりいたせ!」

 駆け寄った源三は、京香からおみつの身体を引き取り、肩口から背中にかけての傷に手を添える。

 傷自体は浅いようだが、出血が多いのか、着ていた白衣がみるみる赤く染まっていく。

「先生……ごめんね」

 源三の腕に支えられたおみつが、源三の手を取る。

「何を謝ることがある」

「私がいなければ、お姐さんは……こんなことに」

 激しくせき込んだおみつは、力を振り絞って源三の腕を辞し、そのまま京香の方へ倒れ込む。

 おみつの手が、京香の振袖の袖を強くつかんだ。

「……お姐さん、目を覚まして。先生と……一緒に……」

 顔をあげて、力なくつぶやいたおみつはそのまま、京香の腕の中で意識を失った――。







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