第五章 五日目−悪夢・其の一−
犬の鳴き声すら届かない静寂な空気の中。
宴が開かれている部屋に向かい、源三とおみつが歩き出す。
必ず、風魔の陰謀を打ち砕き、京香を救い出す――おみつも、気持ちは同じだろう。
「先生」
傍らのおみつが、袖口を軽く引いた。
足を止めて、角に身を潜める。
平沼を筆頭に、汚れた着物にほつれた袴をはいた何人かの浪人の後ろ姿が、ゆっくりと遠ざかる。
その中には、鮮やかな青の振り袖を身にまとう、小柄な女性の姿もあった。
「お姐さん……」
おみつがつぶやく。
このまま二人で乗り込むのも手だが、外で待機している康太や軍太夫の手助けも必要になるか。
「おみつ、申し訳ないがここから表へ出て、康太と軍太夫殿に知らせてくれぬか?」
「康太さんと、父さんに?」
おみつの声が、少し低くなる。
「このまま二人で行くより、少しでも手錬のものが多い方がいい。敵が何人現れるか皆目見当がつかぬしな」
「でも」
「大丈夫だ。軍太夫殿だって、我々とともに闘うそなたを見ればきっと、考えを改めてくれるはずだ」
不安そうにこちらを見ていたおみつだが、時間がないと悟ったのか、黙ってうなずき、障子の向こうへ消える。
源三は大きく息を吸い、宴の開かれている部屋の扉を開けた。
「遅かったではないか」
厳しい表情を崩さぬまま、忠直が耳打ちをする。
「それが……」
辺りが盛り上がっているのを確認し、おみつのこと、そして京香がこの宴に利用されようとしていることを告げる。
「源三殿、渋い顔をしてどうされた? さ、ここは一献」
すでに頬を赤く染めた勘定奉行の吉田陽之新の勧めで、酒を口にする。
「ささ、ここからは綺麗どころも加わって頂きましょうか」
伝兵衛が軽く手を打つ。
すると、何人かの芸者衆が笑みをたたえて室内へ入って来た。
「……源三」
低く名を呼んできた忠直にならって、視線を動かす。
笑みを浮かべてはいるものの、芸者衆の目はうつろで、肌の色も透き通ったように白い。
そして。
芸者衆の列の最後に、京香が入って来た。
あまりにも変わった姿を見て、胸がかきむしられるように痛む。
いつも以上に白い肌。大きな目には以前のような力強さはなく、ただでさえ細かった顔の輪郭は一回りも細くなり、頬はこけている。
しかし、すでに酔いが回っている彼らはそんな芸者衆の様子に気づくことなく、頬を緩め、思い思いの芸者をはべらせ、声をあげて笑っている。
京香は、源三らの真正面に座している老中、飯沼大善の隣に座した。
一瞬、忠直と視線を合わせ、京香の様子を注視する。
飯沼に向って笑みを浮かべ、お酌をする姿は以前と変わらず、優雅だ。
「まあ、何をそんなに怖い顔をなさっておいでです?」
源三よりやや年上に見える、黒い振袖にふくよかな身体を包んだ芸者が、二人の間に座った。
「お姐さん、飯沼様の横に座っている芸者さん、なんていう名だ?」
忠直が少しくだけた口調で、彼女に訊ねる。
「ああ……あの人。ここ最近山城屋さんのお気に入りになった、京香さんとか言う人です。何でも、かなりの売れっ子さんだとかで」
「こちらに、まわしてもらうわけにはいかんか?」
忠直が口の端をややあげながら問う。
京香を近くに置いておく方が、何か起きたときに保護しやすいだろう。
しかし、目の前の芸者の反応はかんばしくない。一瞬、伝兵衛の方を仰ぐように見つめる。
「如何されましたか?」
視線に気づいた伝兵衛が、ゆっくりと歩み寄る。
忠直は少し酔ったふりをして、先ほどと同じ問いを伝兵衛に向けた。
「これはお目が高い。ですがよりきれい所を準備しておりますので、しばしお待ちを」
伝兵衛が立ち上がり、部屋を出ようとしたその時。
乱暴に襖が開き、浪人たちが部屋になだれこむように入ってきた。
室内に、芸者衆の悲鳴がひびく。
そして。
「この続きは、あの世に行ってから楽しんでもらおうか」
長刀を肩にかけた平沼が、悠然と入ってくる。
源三は傍らに置いた刀に手をかけた。
「おっと。その刃を抜けば、あんたの一番大切な女が、ご政道を乱すことになるぜ」
平沼が一歩引く。
「飯沼様!」
隣にいる忠直が叫んだ。
その視線の先には――。
飯沼の喉元に刃を突き付けている、京香の姿があった。
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