花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜(78/87)PDFで表示縦書き表示RDF


花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第五章 五日目−知られざる想い・其の二−


「おみつ!」

 小太郎の呼びかけに答えることなく、おみつは平沼と共に姿を消した。

 新吉の手に握られた、天膳の短剣がさらに冷えていく感覚に、震える。

 同時に、足下で葉が動く音がした。

 すべての力を失ったように、枯草の上に座り込む小太郎を見た新吉は、体中の血が逆流せんとしているかのような怒りを感じ、彼の来ている忍び装束の肩口をつかんだ。

「何ぼさっとしてんだ! あいつが、どんな思いで平沼について行ったかわかってんのか!?」

 小太郎が、新吉を見つめる。しかしその目は、お小夜を保護した時以上に力を無くし、心の動揺をはっきりと示しだしている。

「てめぇは『おみつは俺らを裏切ることはない』 そう言った。だがな、お前もお小夜も、あいつを裏切ってここまで来たんだ。あいつが今、誰のために風魔に戻ったか考えてみやがれ!」

 今、おみつがいちばん大切に思っているのは小太郎でもお小夜でも、新吉でもない。

 彼女を救い、風魔に堕ちている京香、ただ一人だ。

 早く追いかけなければ、京香を助けるどころか、おみつ自身も命を落とすことになる。

 あいつは自分ひとりで京香を助けるつもりだろうが、風魔は……平沼はそんなに甘くはない。必ず、おみつが風魔に飛び込んだ真の理由を察知しているはずだ。

 空を見つめたまま、何の反応も示さない小太郎を見限った新吉は、天膳の短刀を握りしめて立ち上がり、二人の後を追った。


   ◇◇◇◇◇


 音を立てずに廊下を進む源三の目の前には、いくつもの部屋が左右両方に広がっている。

 もしかしたらどこかのふすまの向こうに、京香がいるかもしれない。

 源三は、誰もいないことを確認してひとつ、またひとつふすまを開け、人がいないかを目で追っていく。

 しかし、今まで見てきたいずれの部屋も、もぬけの空だった。

 どこにいる? 京香。

 源三は心の中で何度も問いかける。

 風魔が襲いかかってくる前に見つけ出し、康太か軍太夫に引き渡すことができれば理想的なのだが、ここに、主の伝兵衛以下何人かの奉公人と、招かれた自分ら以外の人間がいる形跡はない。

 京香の捜索をあきらめ、宴の席に戻ろうとした源三の背後から、複数の足音が聞こえる。

 源三はすぐ横にある部屋の襖に手をかけて中へ忍び込み、廊下の物音に耳を澄ませる。

「ちょっと、一体どこへ連れて行くのよ」

 少し低い、聞き覚えのある声に源三は息をのむ。

「せっかちだな。さっきから、約束は守ると言ってるだろう」

「あんたは信用できない。だいたい、お姐さん……京香さんを兄さんに戻すなら、連れてくるのが筋でしょ」

 なぜ、おみつがここにいる? しかも、おみつと話す男は、京香の居場所を知っているのか?

「心配するな。幕府子飼いの人間が数人、ここに来ている。そやつらに返せば文句はないだろう。とにかく、ここに入ってろ。今連れてくる」

 突然、襖が開いた。慌てて身を潜めた源三の前に、おみつが転がり込んでくる。

「ちょっと! 何するのよ!」

 おみつの抗議に答えもせずに襖が閉じられ、足音が遠ざかっていく。

「おみつ」

「……誰?」

 小声で呼んだ自分を警戒する声が耳に届く。源三はそっと襖を開け、廊下の(あかり)を部屋の中へ入れた。

「先生!」

 大きな声を上げるおみつの口をふさぎ、廊下を見渡す。

 誰も通らないことを確認して部屋を出た源三は、壁にかかっている灯篭の一つからろうそくを持ち出し、部屋の中央にある提灯に火を移した。

「なぜここにいるのだ? それに、そなたを連れてきたあの男はいったい何者だ?」

 突然、おみつの顔がくもる。唇をきつく噛みしめ、膝元に視線を落とす。

「……あの男は、平沼っていうの。私が風魔に戻れば、お姐さんを返すっていうから」

「何を考えている!? 平沼と言う男が、京香を生きて戻すと本気で思ったのか?」

「思ってなんかないよ。だから……自分で取り戻しに来たの」

 おみつの目が、源三を見上げる。

「私にはもう、信じられる人がいないの。じいちゃんも母さんも私を裏切った。風魔ってだけで、兄さんだって……」

 こらえ切れない涙が、おみつの頬を濡らした。

「私は、存在してるだけでみんなに迷惑をかける人間。でも、私の正体を知らないとはいえ、お姐さんは『新さんの妹なら、私にとっても妹同然よ。迷惑だなんて思ってない』って、言ってくれた」

 だからおみつは、体調が悪くても、何を知って傷ついても、必死で京香を救い出そうとしていたのか。

 命だけではなく、京香は、おみつの心を救い、支えになっていたのだ。

 おみつに寄せた京香の思いを知った源三は、胸が激しく締めつけられるのを感じていた。


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