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花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第五章 五日目−疑惑−


 駆け出した新吉を追って外へ出たおみつの肺に、冷たい空気が一気に入る。

 咳き込みそうになるのをぐっとこらえ、おみつは兄に遅れまいと速度を上げた。

 屋敷を出てすぐの角を曲がる。武家屋敷の白壁が並ぶ小路を抜けて橋を渡るとすぐ、大店が立つ大通りへと抜ける道に出た。

「どこに行くの?」

 小さな咳をして呼吸を整え前方に問うも、新吉は答えてくれない。

 やむを得ない、か。

 おみつを今、一番(うと)んじているのは、兄の新吉なのだから。

 湧き出る感傷を振り払い、おみつは再び前を向く。すると、見覚えのある光景が次々と目に飛び込んで来た。

 大きな建物に沿って曲がり、少し走ると、新吉は、木戸を激しく叩いた。

 激しく息を吐きながら上を見ると、そこには『山城屋』と書かれた看板が、月夜に照らされて光っている。

「はい」

 おみつよりも幼い顔立ちの奉公人の少年が顔を見せる。

「旦那さんいるかい?」

 新吉が訊ねると、大きな半纏(はんてん)を羽織った少年は思い出したように彼を見上げ、口ごもる。

「口止めでもされてるのか」

 少年はうつむき、小さな声で、勘弁してください、とつぶやく。

「悪いが、こちとら時間がないんだ。今日ここに、幕府の要職の方々が招かれてることは知ってるんだ」

 新吉の声が次第に低くなる。うつむく少年の身体が、小刻みに震えだした。

「お願い。何か知ってるなら教えて」

 新吉の後ろから進み出て、おみつは少年の前にひざまずく。

 少年の怯えた目が、おみつを捉える。

「旦那さんの居場所がわからないと、何人もの人が死んでしまうかもしれないの」

 少年が驚いて、新吉のいる方を見上げる。しかしまた、自らの足元を見て唇をかみしめる。

「お兄ちゃんが言ったって、旦那さんには絶対言わない。だから……ね?」

 おみつは笑みを作って、少年をまっすぐ見つめる。

「……旦那様は、いません。お客様をお連れになって、川向うの寮に行かれました」

「川向う……」

 新吉が、何かを思い出したような口ぶりでつぶやく。

「ありがとう!」

 おみつは立ち上がって、今にも泣きそうな少年の頭を優しく抱きしめる。

「行くぞ、おみつ」

 まだ、こちらを見ない新吉にうなずき、再びおみつは走り出す。

 少しでも早く、山城屋の寮に着かなければ。

「おい」

 新吉が前を見たまま話しかけてくる。

「今回のことが済んだら、お前……どうするつもりだ」

 すべての決着がついたら……。そんなこと、考えてもいなかった。

 風魔の血をひく自分はこれから、恐らく、幕府の人間に追われる立場になるだろう。

 もちろん、小太郎も……、いや、違う。

 軍太夫の話だと、小太郎と自分の正体はとうに、幕府側へ知られていたはず。

 父から話を聞いた時は、不遇をかこったことに対する怒りで気がつかなかった。

 しかし何故、自分と小太郎は、現八代将軍の紀州藩主、吉宗のもとで生き永らえていたのだ?

 吉宗の配下が家族を引き裂いたから?

 自身が、軍太夫の娘だから?

 そんなはずはない。幕府と敵対する風魔に生きていられては、困るのは吉宗のはず。

 ……何か、ある。

 父が、幼い自分を置いて江戸へ出たのも、祖父が、成長した自分をいきなり置き去りにしたのも。

 幕府側の忍びと、風魔の人間。両方の血を引くおみつに関わる何かが、複雑に絡み合っているはず。

「おい! 何ぼおっとしてんだ!」

 いつしか足が止まり、地面を見つめていたおみつに、前方から新吉の怒鳴り声が飛んでくる。

 そうだ。今は、自分の出自などを気にしている場合ではない。

 父親を亡きものにせんとしている母、お小夜から祖父を守り、京香も救い出さなければ。

 おみつは顔を上げ、新吉の背中を追って走り始めた。


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