第五章 五日目−お人好し−
「お小夜!」
お小夜の身体から力が抜け、小太郎の声がうわずった。
この状況から見ると、お小夜の命は風前の灯と言ってもいいだろう。
しかし、こうしている間にも、平沼の背中は次第に遠ざかっている。猶予はない。
「小太郎さん」
新吉は初めて、目の前で狼狽している老人の名を呼んだ。
「ぐずぐずしてたら、平沼を見失っちまう。俺は奴を追うから、あんたはお小夜さんを安全な所で休ませてやるんだ」
小太郎が、こちらを見上げる。しかし、その目は定まらず、表情には動揺の色がくっきりと浮かんでいる。
「安全な、所……」
小太郎の所在なさげなつぶやきに、新吉は小さく舌打ちをする。
いくら、老練な忍びとはいえ、紀州から江戸へ出てきて間もない小太郎に土地勘を求めるのは酷か。
一番安全なのは、小石川療養所。しかし、ここからだとどんなに急いでも、お小夜の命の保証ができない。
ここから、一番近い場所は……。思いを巡らす新吉の脳裏に浮かんだのは、昨日、衝突したまま別れたきりの、源三の実家、清水邸。
新吉の胸に、苦い思いが広がる。恐らく、自分と源三がおみつの出自をめぐって対立したことは、天膳の耳にも入っているはずだ。
だが、今は一刻を争う。
お小夜もさることながら、今、平沼の行き先を見逃せば、京香の命すら、あの世へ発ってしまう。
「小太郎さん」
新吉は再度、小太郎を呼んだ。
「お小夜さんは俺が必ず安全な場所へ連れていく。だから、あんたは平沼を追ってくれ」
「……しかし」
「しのごの言ってる時間はねぇんだ。このまま奴らをのさばらせれば、今度は誰に類が及ぶのか、あんたが一番よく知ってるんじゃないのか?」
小太郎の目に、輝きが戻る。
一瞬、意識を失ったお小夜に視線を落とすと、娘の身体を新吉に託してくる。
「平沼と、風魔のたくらみは、私が必ず阻止いたします。お小夜を……頼みます」
溢れる思いを閉じ込めるように低くつぶやき、小太郎は平沼が去って行った方向へと走り出す。
見送った新吉は、お小夜の身体を抱き上げ、清水邸へ向かって歩きはじめる。
しかし、足が、重い。
(……何をしているんだ? 俺は)
許せないはずだ。おみつも。そして、自分の父を籠絡したお小夜も、彼女の父親である小太郎も。
なのになぜ、自分が追わねばならない平沼を小太郎に託し、自分は、お小夜の命を救うために、決別したはずの源三の実家に向かっているのか。
目を閉じたままのお小夜に視線を落とし、新吉は、自分自身をあざ笑う。
結局……自分も源三と同じ『お人好し』ということか。
自身を鼻で笑ってお小夜を背負い直し、新吉は歩みを速めた。
「新吉さん。どうしたんですか?」
清水邸の重い扉を開けた年若い中間は、新吉のなりを見て驚きの声を上げる。
無理もない。普段滅多に着ることのない小ぎれいな着物姿で、なおかつ傷だらけの人間を背負っているのだから。
「事情はあとで話す。悪いがこの人を寝かせて、康太につなぎをとってくれないか? 時間がねぇんだ」
「わかりました。旦那さま!」
中間が、天膳を呼びに中へ戻る。気まずい思いはぬぐえないが、致し方ない。
ほどなく、複数の人間の足音が聞こえて来た。
◇◇◇◇◇
「ご心配をおかけして、申し訳ありません」
お小夜をどうにか寝かせ、家に居合わせていた療養所の人間に託した新吉は、別室で天膳に頭を下げた。
「大方のことは、源三から聞いておる。順を追って知らねばならなかったことを、一度に知り過ぎただけじゃ」
「清水様」
「いくら軍太夫との仲がしっくり行かずとも、幕府に仇なす風魔を憎むよう言い含められて育ったのじゃ。無理もない。だが」
言葉を切り、天膳が厳しい表情で新吉に向き直る。
「このお役目とおみつとのことは別問題。公私混同は今後、何があっても許さぬぞ」
新吉は無言で、深く頭を下げる。
「お前が連れてきたあの女子……。おみつの母親じゃな」
さすがは天膳。老いても、観察眼は衰えてはいない。
「はい。山城屋を見張っていたところ、近くで倒れこんでいたのを見つけました」
「そなたはなぜ、山城屋に目をつけておった」
言葉に詰まる。おみつの祖父と行動を共にしていたことを告げていいものか。
「今は、緊急事態じゃ。一瞬の迷いが、最悪の結果を生み出すことにもなりかねん。それはそなたも、よく知っているはずじゃ」
名前は出さずとも、天膳が、風魔に堕ちている京香のことを言っているのはよくわかる。
新吉は意を決して、小太郎のことも含め、昨夜からのことを天膳に告げた。
「平沼對馬……。やはり、奴が急先鋒だったか」
天膳が深いため息をつき、目を閉じる。
その直後、離れの方で大きな物音がするのを、新吉は聞いた――。 |