第五章 五日目−重荷−
二人の姿が、人波に消えようとしている。
「……じいちゃん」
源三は、駆け出そうとするおみつの肩をぐっと抑えた。
「先生」
見上げるおみつの目に、源三に対する非難の色が混じる。
「少し距離を置いて後をつけるのだ。今、小太郎殿の前に姿を見せても、何も答えてはくれぬはず」
少し熱いおみつの手を握りしめ、源三が歩を進める。
今はちょうど昼時。寺子屋帰りの子供が駆け回り、食を求める職人が、小料理屋に吸い込まれている。
しかし、今の源三には、世間の動向よりも目の前を行く小太郎、そして今回の事件の鍵を握るであろう浪人の背中しか見えていない。
隣を歩くおみつも、同じ思いだろう。
「どこに行くんだろ?」
「わからぬ。だが……」
この道の先には、幕府御用達の看板を掲げる大店が立ち並ぶ。
幕府を敵とみなしている風魔の人間が歩くには、似つかわしくない場所であるのだが……。
浪人が、そして小太郎が大通りを曲がった。
おみつとともに、角の家の軒先から様子をうかがう。
決して人通りの多くない場所で、浪人は辺りをうかがい、小太郎は背に負った荷物を確認するふりをして立ち止まる。
源三の手を握るおみつの手に、力がこもる。
浪人が、ある建物に入っていった。小太郎も後を追い、中へ消える。
「じいちゃん」
つぶやいたおみつが、心配そうに源三を見上げる。
「おみつ、ここを動くなよ」
念を押し、源三は二人が消えた建物に近づく。
日に焼けた、古い看板が並ぶ老舗の通りで、ただ一つ新しい看板の下に立ち、源三は息をのむ。
「……山城屋、か」
確認するようにつぶやき、建物の間に視線を走らせる。
辺りをうかがいながら、源三の前に姿を現したのは――濃い灰色の小袖に袖を通し、風呂敷包みを持った、新吉だった。
「新吉!」
源三はとっさに叫んだ。
大店の若旦那のように髪をきれいに結い上げた新吉の目が、大きく見開かれる。
「こんな所で、何をしているのだ」
立ち止まったままの新吉に歩み寄り、源三は問うた。
「先生こそ……何してんだ」
源三から視線をそらした新吉の声は、強張っている。
「俺とおみつは今、紀州で小太郎殿に声をかけていたという浪人を追って来たのだ。その浪人は、一番最初に父上がおとりになった際、お前や京香に襲いかかった浪人と同一人物に相違あるまい?」
新吉は源三から目をそらしたまま、何も答えない。
「新吉」
源三はもう一度、名前を呼ぶ。
「京香が昨夜、戻って来たぞ」
驚いた表情で、新吉が再度源三を見た。
「そなたの言う通り、風魔の手先としてだがな」
動かしがたい事実を告げた源三が、視線をそらす。
「……それでもまだおみつと一緒にいるなんざ、あんたも相当なお人よしだな」
新吉の低い声が、源三の心を突き刺す。
「……確かに、そうだな」
源三は、胸に広がる苦い思いとともに息を吐きだし、再度新吉を見た。
「そなたが今、おみつに心を閉ざす気持ちはよくわかる。それを止めろ、とは言えぬ。だが、京香を救いたい気持ちは同じであろう?」
視線がぶつかる。それだけで、源三は新吉と共通の願いがあることを実感する。
「確かに、姐さんを助けたい気持ちはあんたと同じだ。だが……俺はまだ戻らねぇ」
「新吉」
「一つだけ、教えてやるよ」
新吉は、再び視線をそらす。
「あの浪人……平沼對馬は、山城屋と同じ穴の狢だ。奴らは今日、幕閣を揺るがす『余興』を考えてるようだぜ」
「余興?」
「ああ。それに平沼とお小夜さんが昨日、連れ立って良庵先生の所へ薬を取りに行っていた。ご禁制の品だって言うから、阿片か何かだろう。……俺が言えるのはここまでだ。じゃあな」
こちらに構わず、新吉は早足で去っていく。再度呼び止めたかったが、近くにおみつを一人にしておくわけには行かない。
さっきの場所に戻ると、おみつは少しだるそうに壁にもたれかかっていた。頬には発熱特有の不自然な赤みが浮かんでいる。
「大丈夫か?」
おみつは無言でうなずいた。その仕草はやはり、兄の新吉にそっくりだ。
「あいつ……どこに入って行ったの?」
さっきより、少し息が荒い。立つのがやっとのおみつを支える。
「幕府御用達の山城屋という米問屋だ。どうやら、あの浪人と山城屋は仲間らしいな」
「御用達なのに?」
「御用達になるには、幕府の厳しい調べが入るが、山城屋はそれをうまくかいくぐったのだろうな」
山城屋が御用達になった経緯よりも、平沼という浪人とともに企てているらしい『幕閣を揺るがす余興』という言葉がひっかかる。
『余興』とは名ばかりの風魔の作戦が遂行されれば、きっと、御政道に多大な影響が出るのは必定。
すぐに道場へ戻りたいのは山々だが、山城屋の動向も気になる。新吉の言うとおり、平沼とお小夜につながりがあれば、京香が姿を現す可能性も否定できない。
しかし、おみつの体力はすでに限界のようで、少しずつ源三に身体を預けている。
「先生?」
何も言わない自分を心配してか、おみつがうるんだ瞳で見上げてくる。額からは汗が大量に流れ落ちていた。
ここから離れるのは気が引けるが、今はおみつを休ませ、兄にことの次第を告げることの方が先決。
「おみつ。これから実家に戻ろうと思うが、つきあってくれぬか」
「実家って、おじいちゃん……じゃなくて、先生のお父さんの所?」
「山城屋のことを、兄に報告しなければならないのだ。それに、そなたの身体も心配だ」
いつもならここで『大丈夫』と言ってくるおみつだが、何も言わない。
源三は体勢を変えておみつの身体を背負った。初めて会ってからわずか三日なのに、ずいぶん軽くなったことに驚く。
「ごめんなさい……先生」
かすれた声でつぶやいたおみつが、規則正しい寝息を立て始めた。
祖父の安否はどうにか知れたものの、母は風魔として自分の前に立ちはだかる。
紀州でのびやかに育ったおみつにとって、今の状況はあまりにもむごい。
小さな心と身体に背負っている重い荷物に思いをはせた源三の心に、やりきれない思いが広がった――。 |