第五章 五日目−かりそめ−
『何だと!?』
その日の夕刻、身重のお小夜を軍太夫にまかせた小太郎は、紀州の山奥から五里ほど離れた川岸でひざまずいていた。
『お小夜の使命は藩主吉宗を籠絡し、徳川家を崩壊させる一端を担うこと。それは承知しておるはずだ』
低く、抑揚のない声が、小太郎の全身を容赦なく冷やしていく。
『すべては、私の不徳の致すところです。お小夜の罪は、私がすべて請け負いますゆえ、何とぞ、娘だけは……』
赦してもらえぬとわかってはいるが、口にせずにはいられない。
目の前の影は、何も語らない。その沈黙が、矢のように小太郎の心に突き刺さる。
『いかがいたします? お頭』
傍らにいた目付役、平沼の鋭い視線が小太郎を射抜いているのがわかる。
針のむしろに座らされているような感覚が、小太郎の全身を冷やしていく。
目の前の人物は、なおも語らない。
沈黙だけが、辺りを包む。
『お頭!』
たまりかねたのか、平沼が叫んだ。
『………もうよい』
『は!?』
抑揚のない声のあとに聞こえた間の抜けた叫びに、小太郎は思わず顔を上げる。
『任務を忘れ、男にうつつを抜かした挙句にやや子を宿すような女に用はないわ。お前とて同罪。二度と、我らの前に姿を見せるな』
語尾にとげを含みながらも、お小夜を、そして自分を赦す言葉を投げかけた目の前の人物に、小太郎はひれ伏した。
一陣の風が舞う。
同時に、その場にいるのは小太郎一人となった。
これで、お小夜は幸せになれる。
小太郎は、心の底から安堵し、何度も「ありがとうございます」とつぶやいた。
これから、自分とお小夜の身の上に、予想だにしない事態が起こるとも知らずに――。
◇◇◇◇◇
口を結び、何も言わなくなった小太郎を、新吉はじっと見つめていた。
その視線に気づいたのか、小太郎は
「私も結局、非情に徹することができなかったのです」
自嘲気味につぶやいて、小さくため息をつく。
「あなたの父君……軍太夫殿と私は、敵同士でありながら『妻を亡くした』悲しみで深く結びついていたのです。それが……私自身の判断をも狂わせる結果となりました」
「親父の……正体のことか?」
「はい。私はあの日、軍太夫殿が我らの正体を知る日まで、あの方が徳川家側の人間であることを知りませんでした」
「……馬鹿な。そんなわけねぇだろう!?」
小太郎ほどの忍びとあろう者が、娘を孕ませた人間の素性を知らぬはずがない。
新吉はさらに注意深く、小太郎の様子を探る。
「お小夜は、感づいていたようです。おみつを産んでから、あれの顔から、心の底からの笑いが消えたのにも、私は気づかぬふりをして、問いただせずにいました。早くに死んだ妻の分まで、お小夜を幸せにしてやりたい。ただ、それだけでした」
小太郎の言葉が、新吉の心の奥底を激しく揺さぶった。
まだ、おみつの正体を知らぬ数日前。
ただ、おみつを守りたい一心で、父や兄らから彼女を隠そうと躍起になっていた自分と、小太郎が重なったからだ。
「どいつもこいつも……馬鹿だよな」
新吉は、天井から射す光を見つめたまま、誰にともなしにつぶやいた。
自分も、小太郎も。そして……源三も。
一番大切なものを守りたい。なのに、手段を間違えて失おうとしている。
「新吉様。私と、手を組んでは下さいませぬか?」
少し間を置いてからの小太郎の発言に、新吉は思わず身体を起こした。
「手を組む、だと?」
「はい。昨夜はあなた様をここへ無理やりお連れして、一味の動向を窺ってまいりましたが、お小夜が思いもよらぬ行動を起こしまして……。このままでは、京香殿にも危険が及ぶ可能性が」
その行動が何なのかを訊いた新吉は、小太郎の答えに愕然とする。
もし、おみつがこのまま風魔に身をゆだねれば、京香は間違いなく邪魔者として亡きものにされてしまう。
しかし……。新吉はきつく目を閉じる。
風魔であるおみつには二度と関わらない。そう宣言して源三の道場を飛び出した自分だ。
今さら、おみつを守るための行動を起こせと言われても、無理な話だ。
「……俺に、何をしろってんだ」
「あなた様もご存じのはずです。今宵、風魔が山城屋を襲撃することを」
平沼の言葉が、脳裏にひらめく。
『幕閣を揺るがす余興』――奴は確かに、そう言った。
「このまま山城屋が襲われては、幕府の……ひいては上様の行わんとする政は地に墜ちてしまいます。そうならぬためにも」
「風魔一族であるお前さんが、どうしてそこまで幕府に加担する?」
熱がこもった口調に違和感を覚えた新吉は、小太郎に問う。
「すべては、京香殿とお小夜を取り戻した際にお話しいたします。ご協力いただけませぬか」
これ以上問うても、堂々巡りか。ならば。
「……いいだろう。ただし、今回限りだ」
新吉の言葉に、小太郎が深くうなずいた。
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