第五章 五日目−過去・其の三 願い−
恐れていたことが現実になった夜、小太郎はお小夜に告げた。
『明日、ここを出るぞ』
いつもより低い声を発した自分を、娘は驚いた表情のまま見つめ返す。
『その理由は……お前が一番良く知っているはずだ』
『ええ。でも、私はここを離れるわけにはいきません』
『何だと!?』
声を荒げて立ち上がった小太郎を見つめるお小夜の目は、今までにない輝きを放っている。
その目を、小太郎はたった一度だけ見たことがある。
十五年前、まだ恋人だった亡き妻が、お小夜を身ごもったことを自分に告げた時と同じ――。
『お前、まさか……』
『はい。私は、軍太夫様の御子をこの身に宿しております』
よどみなく言い切ったお小夜から目をそらすと同時に、小太郎の身体から、力が抜けた。
『何てことをしてくれたんだ……。お前の責務は』
紀伊藩主吉宗を籠絡し、徳川家を滅亡させる足がかりを作ること。
それなのに、どこの馬の骨ともわからぬ男と恋仲になり、子供を身ごもるとは。
『軍太夫殿はまだ、我らの正体を知らぬ。悪いことは言わん。子は……堕すのだ』
『いやです』
『お小夜!』
『私、この子を産みます。早くに奥方を亡くされた軍太夫様とともに、新しい家族を作って行きたいのです』
『そんなこと……皆が許すと思うか』
小太郎の言葉に、お小夜が息をのむのがわかった。
『一時の感情に流されるな。お前は、軍太夫殿とわしを重ね合わせ、同情しているだけだ』
お小夜が目に涙を溜めて、小太郎を凝視する。
『子は、堕せ。何があっても産むことは許さん』
お小夜に背を向け、小太郎は言い切った。
同時に、扉を乱暴に開ける音と冷たい風が、小太郎の身体を通り抜ける。
『愚か者め……』
小さくつぶやいた小太郎は、傍らにあった瓶から酒を注ぎ、一気に飲み干す。
自分が身体を壊してしまったばっかりに、お小夜は他人の愛にふれ、子までなしてしまった。
復讐のためだけに散らばっている仲間からすれば、これは裏切り行為だ。
しかし。
軍太夫と見つめあった時に見せた、娘の幸せそうな顔。
それが泣き顔に変わるのを見るのは、今の小太郎には耐えられそうもない。
なぜだ? なぜ、迷う必要がある?
一族を再興することこそが、我らの幸せ。そのためには、赤子の命など消えても構わないはずなのに。
小太郎は再度、酒を茶碗に注いで飲み干した。
迷いを消すように、何杯も酒をあおる。
だが、量が増えれば増えるほど、小太郎の思考は、迷路に迷い込んでいった。
◇◇◇◇◇
翌朝、お小夜とともに、商人姿の軍太夫が小太郎のもとを訪れた。
『旅の途中でこんなことになってしまい、大変申し訳なく思っております』
表情を強ばらせたまま、軍太夫は深く頭を下げる。
しかし、そのふるまいからは、初めて会った時のような沈んだ感じは見受けられない。
『私は、お小夜さんと会って生きる気力を取り戻したも同然です。彼女がいなければ……、妻を亡くした悲しみの淵から出ることはできなかったと思います』
妻を亡くした悲しみは、小太郎にもよくわかる。
自分は、お小夜を育てていくことでこの悲しみから抜け出すことができたのだから。
『亡き妻との間にも子がおりますので公にすることはかないませんが、お小夜さんとお腹の子供は私が幸せにします。ここに、留まっては下さいませんか』
『父上……』
お小夜が一歩、前へ進み出た。
『父上を裏切ってしまったこと、申し訳なく思っています。でも私、この手でお腹の子を抱いてやりたいんです』
お小夜の言葉を聞いた小太郎の耳の奥で、ふと、亡き妻の声が響く。
「いつか、お小夜の子供を、この手で抱きたいわね」
それは、一族が滅んだ後に体の弱った妻が、常時口に出していた「願い」だった。
もし今、彼女が生きていたなら……お小夜に何と答えるだろうか?
いや、答えはもうわかっていた。彼女なら、こう言うに違いない。
「お産みなさい。そして、愛する人と幸せになるのですよ」
と。
脳裏に刻まれている柔らかな声を思い出した途端、小太郎の両目から涙がこぼれ落ちた。 |