第五章 五日目−過去・其の一 予感−
何を思い出しているのか、言葉を切った小太郎はうつむいたまま、何も言わない。
まるで、今の自分らを体現しているようなその姿を見ていられなくて、新吉は陽の入る方向に目をやった。
風に乗る木のさざめく音が、新吉の耳を通り抜ける。
いつも聞いている町の営み―人のざわめきや、店を開く木戸の音―が辺りにないことから、この建物が人気のない場所に建てられていることがわかる。
「私らが紀州へ入ったのは、上様……当時紀州藩主であった吉宗様を籠絡し、紀州を内側から支配することでした。そのために仲間内から白羽の矢が立ったのが、私の娘、お小夜でした」
独り言のように、しかし、はっきりとした口調で新吉に告げる声に、よどみはない。
「お小夜ももちろんそれを承諾し、我らは紀州へと入りました。ところが突然、私が体調を崩したことが、お小夜と軍太夫殿を引き合わせるきっかけになってしまったのです」
◇◇◇◇◇
『……もう、大丈夫でしょう。しばらく安静にして、養生することです』
胸の痛みから頭を下げられない小太郎に代わり、薄い水色の着物に袖を通している娘のお小夜が、年配の医師に頭を下げた。
『とりあえず安心ですな。娘さん』
行商人の格好をしている若い男―軍太夫が、お小夜の肩をねぎらうように叩く。
『……はい。一時はどうなるかと。ありがとうございました』
お小夜は安心したのか、目尻にたまった涙をぬぐい、軍太夫に頭を下げた。
『では、私はこれにて。また明日参りますのでな』
『先生、ありがとうございました』
少し陰のある表情を崩さずに、軍太夫が医師に頭を下げた。
それに続いて、お小夜も頭を下げる。
『あの、本当に……ありがとうございました』
医師を見送った軍太夫に、お小夜はお辞儀を繰り返す。
『何も気にすることはありません。困った時はお互い様。それでは、私はこれで』
『あの!』
声音を変えずに立ち上がった軍太夫を引きとめようとするかのように、お小夜が少し切羽詰った様子で呼び止める。
その瞬間、軍太夫の胸を嫌な予感が走った。
『御迷惑でなければ……またいらして下さい。この辺には知り合いもおりませぬし、何かと……』
少し頬を赤らめて、うつむき加減に申し出る娘の様子を見下ろす軍太夫の顔に、笑みが浮かんだ。
『そうですね。父上様のご様子も気になりますし。顔を出すようにいたしましょう。では』
小太郎の視線に気づいたのか、表情を引き締めた軍太夫は足早に小屋を後にした。
その背中を見つめるお小夜の目に、いつもと違う憂いがあると感じた小太郎は、少し強く娘の名を呼んだ。
『……何です? 父上』
『あの男、気をつけろよ』
『やだ、何を仰います。あのお方は父上のお命を助けて下さった方ではありませんか』
布巾をしぼるお小夜が、呆れたような笑みを浮かべる。
その横顔に、先ほど見受けられたような憂いはすでになく、早くに亡くした妻、お遥によく似た愛くるしい微笑みを浮かべて、小太郎を見つめてくる。
『何を勘ぐっておいでです、父上。私は、お役目を忘れてはおりませんよ』
いつもと変わらないお小夜の様子は、小太郎を安堵させたものの、その一方で、一抹の不安が胸をゆっくりと支配する。
(大丈夫。お小夜は、お遥に似て意志の強い娘だ。心配はない)
いやな予感を消すように、何度も小太郎は心の中で繰り返した。
しかし。
その三ヶ月後、小太郎の不安は現実のものとなる――。 |