第五章 五日目−苦渋−
白いもやが、目の前に広がっている。
その向こうから聞こえてくるのは、子供の泣き声。
新吉は、声のする方へゆっくりと歩き出す。
『何やってるんだよ』
『お前なんか、いなくなっちゃえばいいんだ』
泣き声とともに聞こえる、聞き覚えのある言葉に、思わず駆け出した。
少女をいじめている二人の少年の後ろには、忍び装束を身にまとう一人の男が立っている。
男の顔に目をやった新吉の心が、一瞬で凍りつく。
腕組みをし、冷ややかに見つめているのは……。
(――俺?)
動けない新吉をよそに、忍び装束に身を包んだその男が、悠然と三人に近づいた。
それに気づいた少女が顔をあげる。
『……兄さん』
少女から聞こえてくるはずのないおみつの声が、男を呼ぶ。
男の手が、背中にさした刀に伸びる。
(やめろ!)
その意味を察した新吉は叫ぶが、声にならない。
男の刀が、少女に向かって振り下ろされる。
(やめてくれ! そいつは、俺が守らなければならない、ただ一人の――)
「おみつ!」
自分の叫び声で、新吉は目を覚ました。
半鐘の鐘と同じ速さで、胸の鼓動が全身をかけめぐり、また、目の前が暗くなる。
今のは……夢?
それとも、新吉が作り出した幻か?
身体の震えを止めるべく、新吉は目を閉じたまま、何度も息を吐き出した。
すると。
「気がつかれたようですな」
意識を失う直前に、自分の耳元でささやかれたのと同じ声が聞こえた。
「……てめぇは」
声の主を確認して起き上がろうとするが、身体に力が入らない。
「薬が抜けるまでは、まだしばらくの時間が必要です。新吉殿」
昨夕の夜泣き蕎麦屋の主人為吉こと、おみつの祖父小太郎が、茶碗を乗せた盆を持って入ってきた。
「俺を捕らえて……どうするつもりだ」
顔色一つ変えない小太郎を睨みつけ、かすれた声で新吉は問う。
「昨夜も申し上げたはずです。今、あなた様に動かれると厄介だと」
「なぜだ」
「まずは、召し上がりませんか? 腹が減っては何とやらですぞ」
新吉の問いには答えず、小太郎は盆をこちらへ差し出す。
「いらねぇよ。妙なものを入れられてたら敵わんからな」
「あなた様がお隠れになっては……おみつが悲しみます」
小太郎の言葉が、新吉の心を突き刺す。
別れ際に見た、泣きだしそうなおみつの顔が脳裏に甦る。
「私に引き取られてから、あの子はずっとあなた様のことを話しておられました。上の兄者にいじめられていた自分を、唯一」
「やめてくれ!」
昨夕の激情にかられ、小太郎の言葉をさえぎるように新吉は叫んだ。
「どうしてあんたらは親父の前に姿を現したんだ! あんたらさえいなけりゃ、おみつが産まれることも、仲間が風魔に操られることもなかったんだ!」
昨日、おみつに言ったのと同じことを小太郎にぶつけるが、何も言葉は返ってこない。
ただ、辺りを飛び回っているであろうすずめの鳴き声が、朝が来たことを告げているだけ。
その涼やかな声音は、時折自分のためにも朝食を持ってきてくれた京香を思い起こさせる。
『新さん、朝御飯持ってきたわよ』
記憶の中の声に耳をすませた新吉の目の奥が、熱くなった。
京香は、妹を守りたい一心で余裕を失くした自分の代わりに、おみつを守って風魔に堕ちたのだ。
「……何で、風魔なんだよ」
自分が守り抜く。――そう決意した妹に、なぜ、風魔の血が流れているのだ。
「……私らにとっても、おみつが産まれたことは、予想だにしないことでした」
おみつは、小太郎やお小夜にとっても望まぬ子供だったのか――。
驚きのあまり、新吉は寝た姿勢のまま小太郎を凝視する。
その視線に気づいたのか、小太郎は一瞬だけこちらに目を向けた。
「私たちは、風魔を滅ぼした幕府……いや、徳川家に復讐するために、様々な地へ散らばり、その場所に根を張って生きてきました。数少ない女子は、権力者を籠絡させるため、他の男に心を開かぬように教育を徹底して参りました。しかし、お小夜は……」
名前を出したことで娘を思い出したのか、小太郎は、少し顔をしかめて言葉を切ると、唇を強く噛みしめてうつむいた。 |