第五章 五日目−焦りと隙−
「母さん! お姐さん!」
いち早く煙幕から抜け出した源三の背後から、おみつの悲痛な声が聞こえる。
源三の前方で足を止めたおみつの身体が、膝から崩れ落ちる。
「おみっちゃん!」
後を追ってきた康太が、座り込んだおみつの肩に手をかけた。
「……どうして?」
涙に濡れた声で、おみつは誰にとなく問いかける。
「どうして、私を行かせてくれなかったの? どうして?」
「おみっちゃん。あんた、自分の言ってることがわかってるのか!?」
「わかってるよ!」
二人の大きな声に、源三の視線がようやく隣に移る。
月明かりに照らされているおみつの目からは、とめどなく涙がこぼれ落ちている。
「私が行けば……お姐さんは戻ってきたんだよ」
源三の視線に気づいたのか、おみつが、こちらを見上げて言い切った。
彼女の言葉が、大きな刃となって源三の心に突き刺さる。
「父さんだって、お庭番としての地位を守ることができたのに……」
「……おみつ」
軍太夫のうつろな声が、犬の遠吠えにかき消された。
「どうして……」
おみつの声が、かすれる。
「おみっちゃん!」
康太が、力の抜けたおみつの身体を支え、脂汗がにじみ始めた額に手をやった。
「すごい熱だ」
意識を失ったおみつの身体を抱き上げて、康太は足早に歩き出す。
「何ぼぅっと突っ立ってるんだよ。二人とも!」
康太の怒鳴り声に、軍太夫と顔を見合わせた源三は、言葉を発することなく後をついて行った。
◇◇◇◇◇
……また、守れなかった。
傾いた月明かりが降り注ぐ道場の中央に座し、目を閉じたまま呪うのは、自分の非力。
葵と二人で脱走した夜も、おみつを助けて、川へ飛び込んだ夜も、そして……今夜も。
守ろうと手を差し伸べれば遠ざかる、かけがえのない従姉妹。
源三は、傍らに置いた木刀を手に取り、片膝を立てて空を斬った。
自らの迷いを振り切ろうと、幾度も素振りを繰り返す。
しかし、太刀筋が空を斬れば斬るほど、源三の心のもやもやは大きくなり、苛々が募る。
どうすれば、いい。
どう動けば、京香を助け、事件を解決することができるのか――?
立ち尽くし、肩で息をしながら茫然と床板を見つめる源三の背後に、誰かが近づく。
「康太」
「相手になってやろうか。先生」
「……おみつは」
「林さんがついてるよ。何かするんじゃないかと思ってしばらく見てたけど、おみっちゃんの手を握ったままじっとしてたから、ほっとこうと思って」
「今、おみつは父上預かりの身だからな。忠義第一の軍太夫殿に、手出しはできないさ」
「そうか」
一番下から木刀を持ってきた康太が正眼に構えたのを見て、源三も腰を落とす。
幾度か交わされる剣先の乾いた音が大きくなったと同時に、康太が上段から踏み込んできた。
中段から切っ先を流すが、康太の手はゆるまない。
修業時代よりも早い剣さばきに、さしもの源三も防戦一方だ。
上段からの太刀筋を、源三はかろうじて受け止める。
修行を途中で終えた康太が、自分を追い詰めていることを悟った源三の心の中に、なぜか冷たいものが駆けめぐる。
「俺が強いんじゃないさ」
心を見透かしたかのような言葉を発し、康太が離れた。
同時に、源三の目のすぐ先で、康太の持つ木刀がぴたりと止まる。
「先生が、隙だらけなんだよ」
にやっと笑った康太を正視できず、源三は目を伏せる。
「今のあんたじゃ、悪いが京香を救うことはできない」
遠慮のない康太の言葉が、源三の心の傷をえぐる。
「あんたがどう思ってるかは知らねぇが、京香を救うためにはやっぱり、新吉が必要なんだ」
悔しいが……康太の言う通りだ。
うつろな目で、微笑みかけてすらくれない京香を見ただけで足がすくみ、心が動かなかった自分だけで、京香を救うことなどできるはずもない。
「確かにあいつは今、おみっちゃんに対して心を閉ざしてる。だけど、京香を救いたい気持ちは、同じだろ?」
「康太」
「おみっちゃんのことは俺に任せて、あんたはまず、新吉との溝を埋めるんだ。話はそれからだよ」
康太の目が、力強く源三を励ましてくれる。
おみつのことはさておき、今、京香を救うには、新吉の力がどうしても必要だ。
新吉が帰ってきたら、今の現状をありのままに話し、協力を仰ごう。
長い間連れ添ってきた自分らだ。新吉だって、わかってくれるはず――。
冷えた空気に身をさらし、源三は、道場で新吉が帰って来るのを待つ。
しかし、夜が明けても、彼の姿がここに戻ることはなかった。 |