第五章 五日目−畏怖−
「林さん!」
突如走り出した軍太夫の背中に、康太が叫ぶ。
――あの先に、京香がいる!
「康太!」
確信した源三は、康太の名を呼び、軍太夫を追って駆け出した。
昼間の賑わいが嘘のような静けさが漂う街に、三人の足音だけが響く。
先を行く軍太夫、そして源三と康太の歩みに逆らうかのように吹き荒れる冷たい風も、今の自分を止めることなどできない。
今度こそ、京香の笑顔を取り戻す――今、源三にあるのはその思いだけだった。
「おみつ! お小夜!」
大通りに並ぶ庄屋街を過ぎて、源三の視界が開けた途端、軍太夫の声が辺りに響いた。
立ち止まり、康太と顔を見合わせて声のした方に顔を向ける。
源三らのはるか前方に、月明かりに照らされた四つの人影があるのが見える。
「京香!」「おみっちゃん!」
源三は康太と同時に叫び、足早に人影に近づいた。
「……先生、康太さん」
二人を呼ぶ声こそかすれているが、返事を聞く限り、暗示にはかかっていないようだ。
「京香、聞こえるか? 京香!」
源三は思い切って、京香を呼んだ。
しかし、つやのある声が耳に心地いい
『先生』
という返事は返ってこない。
それどころか、感情を持たない虚ろな目が、源三の心をきつく締めつけた。
予期せぬ冷たい汗が、背中を濡らしていく。
「一体、何のつもりだ?」
軍太夫が険しい声で、お小夜に問うた。
「どういうつもりで、京香殿を使っておみつを呼び寄せたのだ!?」
「あなたと取引するつもりは、さらさらないからです」
怒りを内に秘めた冷ややかな声が、その場の空気を一層冷たくさせた。
「その行為が、どれほどおみつを苦しめているのか、お前にはまだわからないのか!」
「あなたに、私やおみつの苦しみがどれほどわかるって言うんです!?」
解き放たれたお小夜の怒りに、軍太夫の言葉が止まる。
「ただ、風魔の血を引くというだけで迫害され、身も心も引き裂かれそうな思いをしてきた私の、そして、あなたの配下に命を狙われて江戸の町を駆け抜けていたおみつの気持ちを、あなたは考えたことがあるんですか?」
「なぜ、それを……」
力なく問い返す軍太夫の声には、明らかに動揺の色が混じっている。
「あなたは、自分の立身出世のために私を捨てて、娘の命を奪うことすらいとわない人間。仲間を売るくらいなら、多少の犠牲はやむを得ないわ」
「お小夜さん!」
「やめて! もうやめてよ!」
犠牲、というお小夜の言葉に血が上った源三を、おみつの叫びがさえぎった。
「もういいよ! 私がお小夜さんと……母さんと一緒に行けば、もう誰も苦しまずにすむ。だから、争うのはやめてよ!」
「何言ってんだおみっちゃん! あんた、風魔になるために江戸に出てきたのか?」
涙をためたおみつの目が、源三の隣にいる康太に釘づけになった。
「違うだろ。江戸に出てきたのは、じいちゃんと一緒の生活を取り戻すためだろう」
「康太さん、でも……」
「あんたが今、お小夜さんと一緒に行ってみろ。それで帰ってきた京香が正気に戻ったとき、喜ぶと思ってるのか?」
おみつの目から、涙がこぼれ落ちるのを源三は見る。
「いいかおみっちゃん。騙されちゃ駄目だ。あんたが一緒に行って喜ぶ人なんて誰もいやしない。お小夜さんだってじきに、後悔するに決まってる」
「後悔? 私が?」
康太の言葉をあざ笑うように、お小夜が問いかけてくる。
「ああ、そうさ」
確信に満ちた目で、康太はお小夜を見返した。
「娘と暮らせるようになれば状況が変わるとでも思ってるんだろうが、そうは問屋が卸さねぇ。今度はあんたと一緒に、風魔の血を引く彼女が公儀に追われる身になるんだ。あんたにそれが耐えられるか?」
お小夜の顔が、こわばった。
彼の姿に、源三は圧倒される。
自分に対して物言わぬ京香を目にして動けない源三とは対照的に、康太は怯むことなくお小夜を追い詰めていく。
「悪いことは言わない。京香を返して、あんたもお上に自ら申し出るんだ。そうすりゃ、おみっちゃんの安全も保障される」
お小夜の微妙な心の揺れが、表情に表れたその時。
爆音とともに、白い煙幕が辺りを覆った。
複数の足音が、源三らから遠ざかるのが聞こえる。
「お小夜!」「京香!」
軍太夫と源三の声が、重なる。
源三は、京香のぬくもりを求めて足音に追いすがるが、鼻につくかすかな香りが、その足を妨げる。
鼻の奥に焼きつく香気を追い出すようにせき込みながら、源三はどうにか煙の中を駆け抜けた。しかし。
追い求めた京香の姿はもう、どこにも見当たらなかった。 |