第五章 五日目−油断と後悔−
実家の清水邸へ戻り、事の次第を軍太夫に伝えるよう兄に依頼した源三は、小石川養生所で康太
の指定する薬をもらい、道場へと急いでいた。
二度と戻ってこないのではないかと思っていた京香が、戻ってきた。
昨夕の新吉の言葉がひっかかり、最初は半信半疑だったが、目の輝きも、おみつに対する心配り
も、すべていなくなる前の彼女と何ら変わりはなかった。
そのことが、源三を心の底から安堵させた。二度と京香を離したくないと、強く思う。
恐らく、新吉が対峙した忍びの手合いが、京香のものにそっくりだっただけなのだろう。
そんなことよりも、早くこの薬を持ち帰り、京香を楽にしてやらねば。そう思い、薬の入った紙
袋を強く握りしめて速足で歩く源三の足を、突然、聞き覚えのある声が止めた。
「源三殿」
「林殿。なぜ、ここに?」
驚きを隠せない源三の提灯に照らされた軍太夫の表情は、どことなく陰りがあるように見える。
「私宛に、妙な投げ文がまいりましたので、ご確認したく参上しました」
「投げ文、ですか?」
「はい。それには、京香殿が源三殿のお宅へ戻ってこられたと記されてありまして。それで一度、
お目通り願えればと」
京香が戻ってきて、まだ一刻も経ってはいない。
なのになぜ、こうも早く軍太夫の耳に届いたのか。
「京香は、身体が弱っておりますので休ませてやりたいのですが……今夜でなければならないので
しょうか?」
「はい。是非に」
「理由を、お聞かせ願えますか?」
警戒心をそのまま声に乗せた源三から、軍太夫は目をそらす。
「先生!」
康太の叫び声が、二人の間の均衡を荒々しくやぶった。
「康太。どうした?」
「京香が……。京香が、おみっちゃんを襲った挙句に姿を消しちまったんだよ!」
「何だと?」
息をはずませながら康太が告げる事実が、源三の血の気を一気に奪ったのがわかる。
なぜ、京香がおみつを襲う必要があるのだ?
「やはりそうか……」
「やはり、って、どういう意味なんですか? 林さん」
康太が、怪訝な表情で軍太夫に問う。
「恐らく、今回京香殿が戻ってきたのは、おみつの母が仕組んだ罠。このままだとおみつの身も、
危険にさらされることになります。康太殿、おみつは?」
「それが……。京香は自分が連れ戻すって言って飛び出しちまって」
『先生!』
不安そうな様子で自分を呼んだあの時、おみつはもしかしたら、こうなることを察知していたの
かもしれない。彼女の言葉に耳を傾け、康太を行かせていれば、こんなことには――。
「左様か。源三殿、すぐにおみつと京香殿を捜し出さねば、取り返しのつかないことになりかねません」
波のように押し寄せ始めた自責の念に囚われていた源三の心を、軍太夫の言葉が引き戻す。
そうだ。今は、過ぎたことを悔やんでいる時ではない。
京香を、そしておみつをもう一度、こちらへ取り戻さねばならない。
「お小夜……いや、おみつが立ち寄りそうな場所に、心当たりはありませんか?」
軍太夫が訊ねてくるが、それはこちらが聞きたいくらいだ。
操られている京香はもとより、おみつの行動範囲すらわからないこの状況で、三人をどう捜せば
よいのか、皆目見当がつかない。
「とりあえず、先生の長屋に行ってみないか? 確か、お小夜さん近くに住んでるんだろ?」
康太の言葉にうなずいて、軍太夫とともに近くにあった橋を渡ろうと走り出す。
その時、強い風が三人の周りを吹き抜けた。
「お待ちください!」
突然、軍太夫が足を止めた。目を閉じ、じっと何かに耳を凝らしている。
「鈴の音……」
そうつぶやいた軍太夫がいきなり方向をかえ、川沿いに走り出す。
「林さん!」 「林殿!」
康太と同時に、源三が叫んだ。 |