第五章 五日目−再会・母と娘−
「……お小夜、さん」
目の前のお小夜を呼ぶおみつの声が、震えた。
「ようやく、会えたわね」
話しかけてくるお小夜の声も、おそらくおみつとは別の意味で、震えている。
「お姐さん……京香さんに暗示をかけたのは、あなたなの?」
おみつの投げかけた言葉に一瞬顔をこわばらせたお小夜だが、少しのちにはっきりと頷いた。
「どうして、そんなことを!? お姐さんは関係ないじゃない!!」
声音が荒くなるのが、おみつ自身にもはっきりわかった。
「関係ない、とは言い切れないわ。この人は、あなたがお世話になっている源三様や、新吉さん同
様公儀の人間なの。私たちの、敵なのよ」
『私たち』 まっすぐおみつを見据えて告げた言葉が、おみつの心を急速に冷やしていく。
「公儀の人間とか、そんなことはどうでもいい。お姐さんを……返してよ!」
「あなたの口から、そんな言葉が出るなんて思わなかったわ」
あまりにも穏やかなお小夜の口調に、おみつは思わず彼女を凝視した。
「だってそうでしょう? あなたは、父や兄たちに疎まれて育ってきたのに」
お小夜の言葉が、心を貫く。
思わずうつむいたおみつの脳裏に浮かぶのは、新吉の上二人の兄に執拗にいじめられた、幼少の
頃の光景……。
『やめてよ、おにいちゃん』
木の上に逃げても、すぐに追いつかれ、泣きながら必死に頼むおみつに、容赦なく突きつけられ
る木刀。
『うるさい。俺たちはお前の兄ちゃんなんかじゃないやい』
再度突き出された木刀を避けたおみつは、折れた枝とともに地面に叩きつけられる。
全身に広がる痛みをこらえ、起き上がろうとする彼女の頭上からは、
『まだあいつ生きてる』
『早くいなくなればいいのにな。あいつの母親みたいにさ』
『何してるんだよ! 兄上!』
二人のあざ笑う声をかき消す怒号が、おみつのすぐ上で聞こえる。
自分を唯一助けてくれる、すぐ上の兄、新吉。
『またお前か。おい、二人ともやっちまおうぜ』
二人分の足音がしたかと思うと、新吉の重みとともに、衝撃がおみつの身体へと伝わった。
どうして、上の兄二人は自分をいじめるのだろう?
新吉だけはいつも助けに来てくれるのに、父はなぜ、助けにきてくれないんだろう?
お母さんがいないから? いや、自分だけ……お母さんが違うから?
いろいろな思いが胸にこみあげると同時に、涙があふれてくるのがわかる。
『こら! 何をしている』
『やべっ!』
『今度は容赦しないからな。覚えとけよ、おみつ!』
聞き覚えのない低い声がすると同時に、上の兄二人の暴力が急に止んだ。
『大丈夫か? 二人とも。全く、何ていう連中だ』
新吉の着物についた泥を落としてやりながら、見ず知らずのおじさんがつぶやく。
『へっちゃらだよ。こんなの、痛くもかゆくもねぇや』
『お、ぼうず。いいぞ。小さい子を守ってやんないとな』
新吉の頭を優しく叩くおじさんの笑顔を見るおみつの目から、涙がいく筋も流れおちていく。
『馬鹿だなぁ。泣くなよ、おみつ』
泥のついた新吉の手が、乱暴に頬をぬぐう。
『兄上なんかに負けるなよ。俺が絶対、おみつを守ってやるからさ』
……守ってやる。
何度も告げてくれた兄はもう、おみつのもとへは還らない。
道場を出ていく間際の新吉に突きつけられた冷たいまなざしが、おみつの心を締めつける。
「戻っていらっしゃい。おみつ」
思いがけない言葉が投げかけられた。思わず、おみつは顔をあげる。
「私と一緒にいれば、もう、虐げられることも、疎まれることもないのよ」
そうだ。私はずっと思っていたんだ。母さえいれば、兄にいじめられることもなかったのに、と。
しかし今、死んでいる、と聞かされていた母はこうして、おみつの目の前にいる。
私が、母と一緒に風魔側へ行けば……。もう、こんなに哀しい目に遭わなくてもすむ。
「そうよ。あなたが戻って来るのなら、京香さんを、源三様のもとへ戻してあげてもいいわ」
おみつの考えを見透かしたかのような穏やかな表情で、お小夜が言う。
母と一緒に行けば……お姐さんを、先生のもとへ戻してあげられる。
そうすれば、兄だって先生への怒りを解くはずだもの
――私さえ、いなければ。
兄と先生とお姐さん。また、三人が元に戻れるんだ……。
母であるお小夜の言葉が、おみつの哀しみや苦しみを、ゆっくりと溶かしていくのがわかる。
おみつの心は今、風魔側へと大きく動き始めた。 |