第五章 五日目−夜明け前・其の四−
「……お姐さん。どうし……」
京香の指先が、おみつの首に食い込み始める。
同時に、さっきから聞こえる鈴の音はまた一段と大きくなり、おみつの耳を通り抜けていく。
あまりの息苦しさに、閉じようとした目をどうにか開く。
すぐそこにある京香の目は、おみつのを向いているのに、焦点が合っていない。一昨日、襲われ
た自分とともに川へ飛び込んだ時の輝きが、今の彼女からは感じられないのだ。
(――暗示?)
薄れていく意識の中で、おみつは昨夕の源三の言葉を思い出した。
『京香が風魔に暗示をかけられている』
だとしたら、一刻も早くこの鈴の音を断たなければ。
おみつは、何か物音を立てようと畳に手を這わせた。何でもいい。
大きな音さえ出せる物ならば、何でも……。
朦朧とし始めた意識を辛うじて保っていたおみつの手に、何か冷えた物が触れた。
力を振り絞ってそれをつかみ、京香のいる方とは逆の方向へ手を振ったその直後、おみつの首か
ら力が抜けた。
大量の空気が身体の中へ突然入ってきて、おみつは激しく咳き込んだ。
「どうしたんだ!」
少したって、康太の声が聞こえる。
「おみっちゃん、いったい何があったんだ?」
康太が、咳が止まらないおみつの背中をさすってくれる。
「お姐さん……は?」
荒い息を繰り返し、ようやく落ち着いたおみつが顔を上げると、京香は布団の向こう側で倒れている。
「京香!」
肩で息をするおみつから離れ、康太が京香に近づいた時、あの鈴の音がまた、頭の中に鳴り始めた。
「だめ! 康太さん」
おみつが叫ぶと同時に、康太の大きな身体が一瞬で壁に叩きつけられた。
「何すんだ!」
左肩を抑え、痛みに顔をゆがめた康太が、京香を見上げた。
「……お前」
何を考えているのかすらわからない、無の表情で立ち尽くす京香のさまに、康太が言葉を失う。
康太に駆け寄ったおみつを一瞥し、京香が身をひるがえす。
「待て!」
おみつに構わず立ち上がり、京香を捉えようとした康太の手を、白い着物の袂がすり抜けた。
「お姐さん!」
おみつも立ち上がるが、突然のことで身体がびっくりしたのか、目の前が大きく揺らぐ。
「おみっちゃん!」
よろけたおみつを、康太が支えてくれた。
「君はここにいろ。京香は俺が連れ戻す」
「私が行く。行かなきゃ駄目なの」
康太の手を振りきって、おみつは京香の開け放した窓から表へ出た。
「おい!」
康太の声が追いかけてくるが、気にしてなどいられない。
冷え切った初冬の空気が、呼吸の整わないおみつの胸いっぱいに広がる。咳き込みそうになるの
をこらえながら、遠ざかる京香を追いかけるおみつの耳に、先程とは較べようのないくらいの大き
な鈴の音が響いている。
おそらく京香は、自身を洗脳している人物のもとへ向かっているのだろう。
しかし、ここで京香を逃してしまったら、彼女が戻ってきたことを誰よりも喜んでいるであろう
源三に申し訳がたたない。
康太や源三の、そして、今回のことでおみつ自身を憎んでいるであろう新吉のためにも、京香を
取り戻す。
そのためなら、彼女を洗脳している人間と渡り合って死んでも本望だ。
そんな死に方なら、まだ生きているかもしれない祖父も、自分を責めたりはしないだろう。
あと、少し。
身軽さを自負してきたおみつの足が、少しずつ京香に近づく。
幾度かふらつきながらも先を走る京香の背中を追って、すぐ近くに見えてきた角を曲がる。
すると、目の前から風がこちらに吹き抜け、川の桟橋に人影が見えた。
(――あいつか)
京香が立ち止まったのをうけ、自らもそこで足を止めた。すると。
「よく来たわね。おみつ」
聞き覚えのある声が、自分の名を親しげに呼ぶ。
湧き上がる警戒心をあらわにして前を見据えたおみつの頭上に月が現れ、声の主の正体を照らした。
京香をかばうようにして立ち、おみつに微笑みを向けていたのは……。
源三の兄、忠直に『母かも知れない』と言われていた女性、縫物職人のお小夜だった。 |