第五章 五日目−夜明け前・其の二−
大きな音が、ようやく夢の世界へ行きかけたおみつの意識を、現へと引き戻した。
隣の襖が開き、二人分の足音が部屋の前を通り過ぎていく。
「………京香!」
起きあがり、部屋から出たばかりのおみつの耳に、源三の悲痛な声が入った。
思わず駆けだし、源三にかかえられている女性の姿を後ろから凝視する。
康太が照らすほのかな灯りに照らされているだけなので、顔色を伺い知ることはできないが、お
でこの真ん中から分けられた、富士の山に似た額の形も、すっと通った鼻筋も、京香のものに違いない。
「……お姐さん!」
京香を呼ぶおみつの鼻の奥が、熱くなる。
「京香、しっかりしろ。目を開けるんだ」
源三の呼びかけに、京香の目がうっすらと開いた。
「京香、わかるか?」
康太が源三の横から手をかざし、京香の目の前で二、三回振る。
「…………」
声にならないが、京香の口は源三を呼ぶように小さく開く。
「お姐さん」
おみつが涙をこらえて京香を呼ぶと、彼女の視線がこちらにゆっくりと注がれた。そして、かす
かに微笑む。
「ごめんね。お姐さん……」
京香のそばに行き、冷えきった手を握ったおみつの頬を、こらえきれない涙が濡らしていく。
「先生。ここじゃ、京香の身体が冷えちまう。おみっちゃんが寝てた部屋に」
康太の言葉にうなずいた源三が、京香を改めて抱き上げた。
後を追い、今まで自分が使っていた布団をめくる。まだ、ほのかにあたたかい。
それがなぜか、おみつを安心させた。
「京香、一体何があったのだ?」
布団の中央に横たえられた京香に、源三が訊ねる。おみつも横で、彼女の返答を待つ。
源三を見ていた京香の目が、一瞬、空を泳いだ。顔は次第に苦渋の表情に変わり、彼女は小さく
首を振る。
「何も……覚えていないんです」
小さくせき込みながら、かすれた声で京香が答えた。
おみつは、源三と顔を見合わせ、再度京香を見る。しかし、京香はまた首を振るだけで、何も答
えられないようだ。
「そうか……。とにかく、無事に戻ってきてくれて何よりだ」
源三が、京香の手を強く握りしめた。
「京香。これ飲めるか?」
席をはずしていた康太が、湯呑みを持って戻ってきた。源三に再び起こされた京香の視線が移る。
「……康太」
「ったくよ、また心配させるんじゃねぇよ」
乱暴な口調とは裏腹に、湯呑みを差し出す手は優しい。
(幼なじみ……か)
身体はそばにいるのに、心はなぜか遠い。おみつは思わず三人から視線をそらしうつむいた。
「ごめんね」
「謝る相手が違うだろ、馬鹿。一番心配していたのは、この子だよ」
康太の手が、突然おみつの肩に置かれた。驚いて顔を上げたおみつに、康太はそっと目配せをする。
「……ごめんなさいね。あなたにまで心配と迷惑をかけてしまって」
源三に支えられている京香の手が、そっとおみつの手を握る。
胸が熱くなり、再び涙が目じりから落ちる。言葉にならなくて、首を振ることしかできない。
迷惑をかけたのは、私なのに。「私」という存在なのに。
「泣かないで。ほら」
冷えた手が、頬にそっと触れる。しかしその手はすぐに離れ、京香は激しくせきこんだ。
「大丈夫か?」
源三がそっと、京香の背中をさすった。落ち着くと、康太がすぐに診察を始める。
「別の薬が必要だな。先生、俺取ってくるよ」
「待ってくれ。どの薬が必要か教えてくれれば、俺が行く。林殿にこのことも報告せねばならないし」
「そうか。……じゃあ、花梨を原料にした和木瓜という生薬が診療所にあるはずだから、それを
もらって来てくれないか」
「わかった。京香、少しだけ待っていろ。おみつ、京香を頼む」
乾いたせきが止まらぬなか、京香が源三に向かってうなずいた。しかし。
「先生!」
おみつは思わず、源三を呼んだ。
「どうした? おみつ」
「……ううん。何でもない。気をつけてね」
かすかに笑みを浮かべておみつに頷き、源三が部屋から出ていく。
「おみっちゃん。先生なら大丈夫だよ」
力強い康太の言葉に首を縦に振って答えるが、おみつの心は晴れない。
なぜかはわからないが、今、源三を行かせてはならないような気がしてならないのだ。
(早く帰って来て。先生)
おみつは、源三が出て行った方向を見つめ、祈ることしかできなかった。 |