花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜(57/87)PDFで表示縦書き表示RDF


【用語説明】
和木瓜(わもっか)花梨(かりん)の果実を原料とした生薬で、のどの炎症に効くとされている。
花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第五章 五日目−夜明け前・其の二−


 大きな音が、ようやく夢の世界へ行きかけたおみつの意識を、(うつつ)へと引き戻した。

 隣の襖が開き、二人分の足音が部屋の前を通り過ぎていく。

「………京香!」

 起きあがり、部屋から出たばかりのおみつの耳に、源三の悲痛な声が入った。

 思わず駆けだし、源三にかかえられている女性の姿を後ろから凝視する。

 康太が照らすほのかな灯りに照らされているだけなので、顔色を伺い知ることはできないが、お
でこの真ん中から分けられた、富士の山に似た額の形も、すっと通った鼻筋も、京香のものに違いない。

「……お姐さん!」

 京香を呼ぶおみつの鼻の奥が、熱くなる。

「京香、しっかりしろ。目を開けるんだ」

 源三の呼びかけに、京香の目がうっすらと開いた。

「京香、わかるか?」

 康太が源三の横から手をかざし、京香の目の前で二、三回振る。

「…………」

 声にならないが、京香の口は源三を呼ぶように小さく開く。

「お姐さん」

 おみつが涙をこらえて京香を呼ぶと、彼女の視線がこちらにゆっくりと注がれた。そして、かす
かに微笑む。

「ごめんね。お姐さん……」

 京香のそばに行き、冷えきった手を握ったおみつの頬を、こらえきれない涙が濡らしていく。

「先生。ここじゃ、京香の身体が冷えちまう。おみっちゃんが寝てた部屋に」

 康太の言葉にうなずいた源三が、京香を改めて抱き上げた。

 後を追い、今まで自分が使っていた布団をめくる。まだ、ほのかにあたたかい。

 それがなぜか、おみつを安心させた。

「京香、一体何があったのだ?」

 布団の中央に横たえられた京香に、源三が訊ねる。おみつも横で、彼女の返答を待つ。

 源三を見ていた京香の目が、一瞬、空を泳いだ。顔は次第に苦渋の表情に変わり、彼女は小さく
首を振る。

「何も……覚えていないんです」

 小さくせき込みながら、かすれた声で京香が答えた。

 おみつは、源三と顔を見合わせ、再度京香を見る。しかし、京香はまた首を振るだけで、何も答
えられないようだ。

「そうか……。とにかく、無事に戻ってきてくれて何よりだ」

 源三が、京香の手を強く握りしめた。

「京香。これ飲めるか?」

 席をはずしていた康太が、湯呑みを持って戻ってきた。源三に再び起こされた京香の視線が移る。

「……康太」

「ったくよ、また心配させるんじゃねぇよ」

 乱暴な口調とは裏腹に、湯呑みを差し出す手は優しい。

(幼なじみ……か)

 身体はそばにいるのに、心はなぜか遠い。おみつは思わず三人から視線をそらしうつむいた。

「ごめんね」

「謝る相手が違うだろ、馬鹿。一番心配していたのは、この子だよ」

 康太の手が、突然おみつの肩に置かれた。驚いて顔を上げたおみつに、康太はそっと目配せをする。

「……ごめんなさいね。あなたにまで心配と迷惑をかけてしまって」

 源三に支えられている京香の手が、そっとおみつの手を握る。

 胸が熱くなり、再び涙が目じりから落ちる。言葉にならなくて、首を振ることしかできない。

 迷惑をかけたのは、私なのに。「私」という存在なのに。

「泣かないで。ほら」

 冷えた手が、頬にそっと触れる。しかしその手はすぐに離れ、京香は激しくせきこんだ。

「大丈夫か?」

 源三がそっと、京香の背中をさすった。落ち着くと、康太がすぐに診察を始める。

「別の薬が必要だな。先生、俺取ってくるよ」

「待ってくれ。どの薬が必要か教えてくれれば、俺が行く。林殿にこのことも報告せねばならないし」

「そうか。……じゃあ、花梨(かりん)を原料にした和木瓜(わもっか)という生薬が診療所にあるはずだから、それを
もらって来てくれないか」

「わかった。京香、少しだけ待っていろ。おみつ、京香を頼む」

 乾いたせきが止まらぬなか、京香が源三に向かってうなずいた。しかし。

「先生!」

 おみつは思わず、源三を呼んだ。

「どうした? おみつ」

「……ううん。何でもない。気をつけてね」

 かすかに笑みを浮かべておみつに頷き、源三が部屋から出ていく。

「おみっちゃん。先生なら大丈夫だよ」

 力強い康太の言葉に首を縦に振って答えるが、おみつの心は晴れない。

 なぜかはわからないが、今、源三を行かせてはならないような気がしてならないのだ。

(早く帰って来て。先生)

 おみつは、源三が出て行った方向を見つめ、祈ることしかできなかった。


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