第五章 五日目−夜明け前・其の一−
新吉が道場を出て行ってから、どれくらいが過ぎたのか。
時刻はすでに子の刻を回り、『依頼』を受けてちょうど五日目。京香が源三の前から姿を消して
二日を過ぎている。
『あんたに、姐さんが斬れるのか!?』
去り際に新吉が残した言葉が、源三の耳を何度も通り抜けていく。
江戸の庶民を守るために働く自分らには『死』はいつ襲いかかってきてもおかしくない、突発的
なものだということは、源三は勿論、新吉や京香にもわかっている。
しかし、『仲間を斬る』という選択肢が目の前に横たわってこようとは、思いもよらなかった。
もし、今日の朝、京香が源三と軍太夫に襲いかかってきたら……、彼女を「斬らねば」ならない
のは明白だ。しかし。
自分に、それができるのか――?
「やっと、おみっちゃん眠ったぜ。先生」
小さく揺れる灯籠の炎を見つめる源三の意識が、康太の声で現実に戻された。
「すまないな、康太。すっかり迷惑をかけてしまった」
「別に、気にしちゃいないさ。それより、一体何があったんだ?」
灯籠をはさんで腰を下ろした康太が、源三をまっすぐ見据えて訊ねてくる。
「新吉がえらい剣幕で出て行ったと思ったら、おみっちゃんが泣きじゃくってるし。あんたまでい
きなり部屋に閉じこもっちまって」
「…………」
「さっき寝つくまで、彼女ずっと『自分のせいだ』って泣き続けて……。見てられなかった」
かすかに震える声で、康太がつぶやく。
「俺なんかじゃ役に立たないかもしれないけどさ、話してくれないか? 昔のよしみでさ」
昔馴染みで、源三らの仕事を理解している康太とはいえ、彼は外部の人間だ。役目に関すること
を漏らしてはならない掟がある。
しかし彼の厚意が、今ある現実を一人で受け止めるには限界が訪れている源三の心にゆっくりと
染み込む。
源三は、誰にも話さぬことを条件に、お小夜がおみつの母であったこと、京香が風魔に捕らわれ
暗示をかけられていることを新吉がおみつのせいだと思い込んでいること、そして、軍太夫がお小
夜に提案した明朝の取引のことを手短に説明した。
「新吉の奴……何考えてんだ。今朝まではあんなに心配してたのに、おみっちゃんが風魔の血を引
いているってわかった途端、京香がいなくなったのは彼女のせいだなんてよ」
「よせ、康太」
言葉じりがきつくなっていく康太を、源三がいさめる。
「だけど先生。今、一番苦しんでいるのはおみっちゃんなんだぜ」
康太の言うことはわかっている。しかし。
「まさか、あんたもそんなこと考えてるんじゃないだろうな」
昨夕の新吉の問いと同じ言葉に、源三は答えられずに目をそらす。
「先生!」
康太の声が大きくなるのを目で制した源三に、鋭い眼差しが注がれる。
おみつの事情を知ってなお、彼女を守りたいと願っているであろう康太の純粋な気持ちが、今の
自分にはないことを黙っていても見抜かれてしまいそうで、絞り出すように本音を口にする。
「……思わなかった、と言えば嘘になる。だが、それでおみつを憎んでしまったら、彼女の純粋な
願いを守ろうと命を賭けた京香の思いをも否定してしまうような気がして、できなかった」
言葉を切った源三は、目の奥にたまる熱いものをしまい込むように、きつく目を閉じた。
遠くから聞こえる犬の遠吠えが、京香が葵とともに行方不明になった夜、最後まであきらめずに
捜し続けた幼い三人―源三、新吉、康太―の姿を脳裏に浮かび上がらせる。
あの時も、あきらめそうになった源三や新吉を励ましてくれたのは、ここにいる康太だった。
「先生は……京香のことが好きなんだな」
突然の康太の言葉に、源三は思わず目を見開く。
「当たり前だろう。俺と京香は従兄妹同士なのだから」
「そういう意味じゃあないんだけど、な」
意味ありげな康太の表情が、提灯の中で揺れる炎にうかぶ。
「どういう意味だ?」
「さぁ、それは自分で考えるんだな。それより、これからどうするんだ? お小夜さん、京香を連
れて来るかな」
康太の口から出たお小夜の名が、源三を引き戻す。
「現段階では五分五分……いや、お小夜さんに母としての良心があるなら、連れて来ると信じたいがな」
「でも、新吉が言ってたことが本当なら……。京香は今、風魔の手先として動いてるんだろう?
下手すりゃ、裏切り者としてお小夜さんと一緒に殺される。もしくは、相手の言うままに、京香が
彼女を殺してしまう可能性だってあるんじゃないか?」
康太の率直な言葉が、源三の胸を打つ。
忍びの世界は、主人への忠義が第一。
京香の本来の主は源三の父、天膳だが、今の彼女の主人は、今回の事件に関わる風魔の忍びなのだ。
源三の胸に、苦い思いが交錯し始めたその時、玄関先で、人が倒れ込んでくるような大きな物音
が聞こえた――。 |