第四章 四日目−混迷−
犬の遠吠えが、江戸の町に何度も響く。
今の新吉の心に巣くう、深い闇のような空を見上げ、新吉は通りに立ち尽くす。
おみつへの怒りにまかせて飛び出しては来たものの、これから先、どうしたらいいのか見当もつかない。
『あんたに、姐さんが斬れるのか!?』
煮え切らない源三への腹立ちのまま口にしてしまった言葉を反芻する新吉の背筋に、冷たい滴か流れ落ちた。
もし、新吉自身がそう問われたなら。
今一度、京香が自分の前に敵として立ちはだかったなら……。
自分の、もしくは源三の刃が、京香の身体を引き裂く――考えただけでも、身震いがする。
小さい頃からずっと共にいた、かけがえのない仲間。そんな彼女を斬るなんてことが、新吉に出
来るわけがない。源三ならなおさらそうであろう。
どうすればいい?
どうすれば、風魔の手に落ちている京香を、前と同じ状態でこちらに取り戻せるのか。
足下だけを見つめて考えを巡らせるが、有効な手段は全く思いつかない。
それどころか、どう考えても一人で彼女を救い出せる方法がないことに気づかされるのだ。
『よいか。そなたらは、三人揃ってやっと一人前じゃ。庶民を守り、江戸の治安を安定させるため
には、何があっても協力し、ことに当たるのが肝要』
花ぐるまの結成時に、天膳から言われた言葉が、新吉の胸に重くのしかかる。
あの頃は……こんな日が来るなんて思いもしなかった。
いつ死ぬかわからないお役目だと理解はしていても、三人でずっと、江戸の治安を守っていける
と信じていたのに。
源三と自分の心には大きな隔たりができ、京香が戻ってくる可能性は、限りなく低い。
これから先、自分はどうすればいいのだろうか?
とりとめのないことをつらつらと考えながら、わずかな明かりを頼りに、新吉は通りをあてもなく歩き出す。
そこへ。
「親分、こんな遅くまで御用の筋ですか?」
馴染みのない、しわがれた声が新吉を呼び止める。
「お前さんは?」
「夜鳴き蕎麦を引いてます、為吉ってもんです。一杯どうです?」
新吉はとりあえず蕎麦と熱燗を注文し、腰を下ろす。
「冴えない表情ですね。何かあったんですか?」
「ああ。まあな。それより、この辺じゃあまり見かけねぇが、商売は長いのか?」
慣れた手つきでそばの水分を切る為吉に問いかける。ほっかむりを被っているせいで顔を見るこ
とはできないが、しわだらけの手が、働きどおしであろう彼の人生を物語っている。
「ええ。最近では山城屋さんの辺りでよく引いてますよ」
「山城屋?」
為吉の口から漏れた『山城屋』の名前に、新吉は食いついた。
風魔とつながりがある山城屋の情報から、京香を救う手がかりをつかめるかもしれない。
「あの辺の客層はどんな感じだい?」
為吉が注いでくれた熱燗に口をつけながら、新吉は問う。
「そうですねぇ。どういうわけか、ご浪人さんが多いですよ」
浪人、か。恐らく、平沼もここに食べに来ているに違いない。
「どんな話をしてるか、聞いたことはないか?」
「いえ。……でも親分、なぜそのようなことを?」
為吉の指摘に、いや、と小さく首を振り飲み干すと、お代を置いて立ち上がる。
しかしその瞬間、新吉の目の前が大きく揺れた。慌てて木の板に手を置くが、力が入らない。
「だからあの時、この事件から手を引け、と言ったでしょう」
突然、耳元でささやきかけてくる、聞き覚えのある声。
「……てめぇは」
つい先日新吉を、そして京香を脅してきた忍び――おみつの祖父、小太郎に違いない。
「申し訳ありませんが、しばらく眠っていて頂きますよ。今あなたに動かれては、こちらが動けな
くなりますのでね」
冗談ではない。今、京香を救えるのは自分しかいないのだ。
だが、時が経つにつれて新吉の身体からは力が抜けていき、頭の中にも白いもやがかかる。
胸の中にやった手が短刀をつかむ前に、新吉の意識は闇に吸い込まれてしまった。 |