第四章 四日目−五里霧中−
道場を飛び出した新吉の目に、沈みかけた夕陽が飛び込んでくる。
あまりの眩しさに目をそらした先の空は闇に溶け始め、もうすぐ江戸の町に夜の帳が下りてくる
ことを告げている。
まるで、自身の今の心境を表すような色だな――新吉は自嘲的に笑って、肩をすくめた。
幼い頃から『守らなくてはならない妹』だった、おみつ。
その妹が、幕府のかつての敵だと聞かされていた、風魔の血を引く娘だった。
父はともかく、兄がなぜ、おみつにあれほど冷たく当たったのかわからずに反発していたが、今
なら、その理由がわかる。恐らく、上の兄二人は早々に聞かされていたのだろう。
もし、自分が兄らと同じ時期にこれを聞かされていたらおそらく、同じ態度を取っていたに違いない。
なぜ、父は、自分だけにおみつの出自を明かさなかったのか? そんな疑問が、新吉の中に湧き上がる。
確かに、幼いころの自分は、兄二人がすぐにできることをいつまでもできなかった。
林家の劣等生――。そんな見方が、父、そして兄にもあったことを薄々気づいていた。だから家
族と別れさせられ、独り、厳しい修行に身を投じなければならなかった。
そう考えて源三や京香、そして康太らに負けないように、何より、父や兄を見返してやるという
気持ちがくじけそうな新吉の心を支え、耐え抜くことが出来たのだ。
その結果が『庶民のための御庭番』であるこの役目。上様を守る父や兄と違い、庶民を直接守る
この仕事は、やりがいと大きな充実感を与えてくれている。
しかし、今回のことに関して言えば、充実感どころか、虚しさだけが自身の心を支配する。
今まで以上にはっきりとわかった父子の溝、おみつが、風魔の末裔であったことすら知らずに川
へ飛び込み、生死不明になってしまった仲間。
かけがえのない妹であったはずのおみつの存在が、新吉の価値観を壊し始めている。
その証拠に、おみつの出自を知ってから、彼女の顔すらまともに見ることができずにいた。
そんな新吉に追い打ちをかけたのは、おみつの祖父、小太郎が生きているという事実だ。いたた
まれなくなって『心当たりがある』と言って外へ出てきたが、そんなもの、どこにもない。
おみつ自身は、何も変わっていない。風魔の血を引いていると聞かされても、彼女を助けてくれ
た京香を思って涙を流し、自らが助けたいと願っているだろう。
そんなおみつを見守る源三も、康太も態度は何も変わらない。いや、それどころか、新吉の心と
は裏腹に、『おみつを守る』という意思は強くなっているように見受けられた。
自分は、どうすればいい? これから先、おみつを妹として慈しみ、守るにはどう気持ちを切り
替えていけばいいのだ?
大店ばかりが並ぶ表通りを歩く新吉の身体を、木枯らしが強くなめていく。
両手を胸の前で組んで肩をすくめ、視線を上げた先に、今朝取り逃がした浪人、平沼が歩いて行
くのが見えた。しかも、茶色の粗末な着物に袖を通した、見覚えのある女性を連れている。
あれは確か、源三の近くに住んでいる、縫物職人のお小夜だ。
なぜ、二人が連れ立って歩いているのかはわからぬが、新吉は再度距離を取り、平沼のあとをつけていく。
表通りの一角にある両替商の加納屋を曲がり、やや広い路地を抜けたところの突き当たりにある
竹垣が囲った家に、二人は入って行った。
「……ここは」
今朝、康太が最初に回ろうと言った良庵の診療所だ。
新吉は、音を立てずに玄関横の竹垣に近寄る。すると、しわがれた大きな声が耳に届いた。
「何? あの量をもう使い切ったと言うのか!?」
「ええ。思いのほか、痛みが強く出たようでしたから、患者を楽にするために」
高く、冷えた声。源三の家の前で会う時とは全く違う声音に、新吉の背筋が寒くなる。
「馬鹿を申せ。確かにあの薬は痛みを和らげ、一時的には体が回復する。しかし、その後には」
「わかってますよ。先生。その症状を抑えるためにも、あの薬が必要なんですから」
「對馬殿」
お小夜の声が、平沼の下の名前らしき名を呼ぶ。
「断る」
「断ってもいいのかい? 先生。あんたがこちらに提供した薬は、元々御禁制の品だ。それがお上
にばれちゃ、都合が悪くなりはしないか? な、次期御殿医殿」
平沼が、良庵の言葉を封じたらしい。衣ずれの音が気になった新吉は、そっと竹垣の穴から中を
うかがう。すると。
「……今回限りじゃ。これ以上これを使わば、あの娘は死に至るぞ」
良庵が、平沼とお小夜の膝元へ白い包みを差し出したのを、夕焼けがはっきりと映し出した。
「あの娘が死のうが、俺らには関係ない。役に立たなければ、これを使うまでもなく殺すだけよ」
低い声で吐き捨てた平沼がお小夜とともに立ち上がり、近づいてくる。新吉は慌てて物陰に身を
隠し、奴らが歩いて行くのを見送って立ち上がった。 |