第一章 一日目−葛藤−
「……おかわり」
目の前にいきなり茶碗を差し出された京香は、びっくりして目を見開いた。
「どうしたんだ? ぼぅっとして」
京香のその様がおかしかったのか、目の前の源三が含み笑いをして訊ねてきた。
「あ、いえ。別に」
茶碗を受け取ってご飯をよそいながら答えるが、新吉が最後に見せたあの顔が、京香の脳裏から離れていかない。
「新吉のところで、何かあったのか?」
「なぜ私が、新さんのところへ行ったとご存知なんです?」
今日はまだ、新吉のところへ寄ってきたとは言っていないのに。
「その身長の割にせわしなく歩くお前が、いつになく遅かったからな」
源三は背が高く、五尺六寸あるのに対し、京香の身長は五尺ちょっとしかない。
自分の背が小さいことが悩みの京香は、少しでも強く見せるための努力を怠ることはない。
源三の言う「せわしない歩き方」もそれの一環なのだが。
「まぁ。そんなこと言う人にはもう、ご飯作ってあげませんよ」
それをちゃかされたことに少しむっとした京香は、そっぽを向いて意地悪く言った。
「お、おいおい」
本当に慌てた様子で、源三が言った。いかんせん、京香の教えでようやくご飯をたくことを覚えた彼にとって、京香がご飯を作らないのは死ねというのと同じことらしい。
「冗談に決まってるじゃありませんか」
少し肩をすくめて京香が言うと、源三は心底安堵した様子で胸をなでおろした。
そんな源三を見て、ふと思う。
旗本の次男、三男に生まれたものは長男と違って家督の相続権がなく、冷遇されるものが多いと聞く。
清水家の家督を当たり前のように相続した忠直と違い、天膳の命令で修行を積み、野に下ったことを源三はどう思っているのだろうか。
「先生……いや、源三様」
元服する前の呼び名を口にした京香に、源三は怪訝そうな表情を浮かべた。
「源三様は、どう思っていらっしゃるんです? 忠直様とは違って野に下り、このような生活をしていること」
一瞬だけ、源三の目が険しくなった。しかし、すぐさま笑みを浮かべて言う。
「部屋住でくすぶっているよりも、今のほうが俺の性にはあってるよ」
「……本当に?」
「どうして、そんなことを聞くんだ?」
「いえ。何となく気になったものだから」
京香は源三を見ずに、言葉をにごす。
「京香は、今の生活に不満でもあるのか?」
新吉と同じように、京香も幼い頃に両親と別れた。
当時八歳。まだまだ父や母に甘えたい盛りに連れてこられ、すぐに厳しい修行に身を投じなければならなかったことを恨みに思ったこともあったが、今は何の不満も持ってはいない。
京香は、小さく首を振った。
紀州へいても、成長すればいずれは知らぬところへ嫁に行かねばならなかったはずだ。
だったら、信頼できる仲間とともに、江戸の庶民のために戦うこの暮らしのほうが、京香の性にもあっている。
「そうか」
源三が嬉しそうな笑みを浮かべてうなずいた。
でも、新吉はどう思っているのだろう。
おみつをかばったがゆえに、公儀御庭番衆から外れたのだとしたら、それこそ本末転倒な話ではないのだろうか?
あるいは、軍太夫が新吉を外し、おみつを紀州へ置いてきたのには、何か別の理由があるのだろうか?
笑みを浮かべて源三を見つめながらも、京香の思いは、新吉兄妹に向いたままだった。
「そういえば京香。お前、最近江戸へ出てきた山城屋を知っているか」
「山城屋さんて言えば、この前亡くなった米問屋の秋田屋さんに代わる次期御用商人と噂の……」
「ああ。上様が直々にお声をかけ、紀州から出てきたと言われている由緒ある米問屋だ。連中が次に狙うとするなら、その山城屋だろうな」
お茶とともにご飯を口にかきこみながら、源三が言う。
また、自分の出番のようだ。今度の相手は多分、目の前にいる源三だろう。
「いつになさいます?」
「今夜、戌の刻に『浮雲』に来るよう、父上に伝えてある」
「……またですか?」
京香はあきれた物言いで、源三を見た。
「仕方がないだろう。本人が一番やる気なのだから。今度は兄上にも許可はとってあるよ」
どうせごり押ししたのだろう。忠直の、苦虫をかみ潰したような顔が目に浮かぶ。
「じゃあ、帰りに新さんに伝えておきますから」
あからさまにため息をついて、京香は残ったご飯にお茶をかけてほおばり始めた。 |