第四章 四日目−浮遊−
お小夜が去り、この家に用事のなくなった源三と軍太夫は、忠直にこのことを告げるため、表長
屋に向かっていた。
お小夜は、軍太夫の申し出を受け、京香を返してくれるのだろうか。
不安だけが、今の源三の心を支配する。
「勝手に事を運んでしまい、申し訳ありません」
前を見たまま、軍太夫が謝罪の言葉を口にする。
「いえ……。突然のことで驚きましたが、今は、この方法しかないように私も思います」
今、風魔の手に落ちている京香との細い糸をたぐり寄せるには、お小夜の親心にすべてを託すしかない。
「源三! どこへ行っていたのだ」
お小夜と源三の住まいから表長屋までは、そう距離がない。二人の重苦しい雰囲気は、近所の人
たちの喧騒に、再びかき消される。
「実は……」
源三が耳元で今までのことを手短に報告すると、忠直の眼差しが一段と鋭くなった。
「わかった。お小夜の動向はこちらの手の者にも探らせておこう。それよりも、長屋の住民に体調
を崩しているものも出ておる。源三、康太を呼んで来い。軍太夫殿は奉行所へ赴き、ことの次第を
奉行にお伝え願いたい」
「かしこまりました。小石川養生所への手配も済ませておきましょう」
「頼む」
軍太夫が会釈をして、素早く走り去る。源三も、感傷を振り切るように身をひるがえした。
「源三」
「はい」
もう一度振り返った源三に、忠直が厳しい表情を崩さずに言う。
「お小夜のことは、しばらくおみつには伏せておくのだ。よいな」
もちろん心得ている。せめて、京香が生きてこちらへ戻ってくるまでは、母のことは言えない。
源三は頭を軽く下げて、忠直に背を向けて駆け出した。
「あ! 先生」
聞き覚えのある声とともに、夕焼けを背に、康太が走ってくる。
「ちょうどよかった。お前に頼みたいことがあるのだが」
「それどころじゃないんだよ先生。実は……」
源三の言葉をさえぎり、康太は声をひそめてある事実を告げてくる。
「小太郎殿が、生きている?」
「ああ。林さんの話だと、小太郎さんの背中には大きな傷があるだろう。もちろん、おみっちゃん
もそれは知ってる。着物を着換えさせようとした新吉が、彼の身体を返したときに見たら」
体内を回らなくなった血液が、背中に大きなあざを作っていたものの、そこにあるはずの傷跡が
全くなかったというのだ。
「おみっちゃんは訳がわからなくて混乱しているし、清水様も心なしか慌ててる。もし、小太郎さ
んが風魔側についてたら……どうするよ?」
お小夜が、おみつの母だとわかっただけでも大打撃なのに、祖父までもが風魔についていたとす
れば、彼女の心が風魔側へ一気に傾くのは目に見えている。
「新吉は?」
「それが、何考えてるんだかさっぱりわかりゃしないんだよ。無言のままじっと考え込んでるかと
思うと、突然外へ飛び出して行っちまって」
「外へ?」
「ああ。心当たりがある、って言ってたけど」
後頭部を掻きながら、心底困り果てた顔で康太がつぶやく。
「わかった。俺は道場へ戻るから、すぐそこの表長屋に行ってくれ。大麻が焚かれていて、具合が
悪くなったものも出ているらしい。養生所からも応援が来る」
「おみっちゃんのこと頼むわ。先生」
康太の肩を叩き、歩を速めた源三は、ほどなく道場へ着いた。
引き戸を開く音を聞きつけたおみつが、動揺を隠しきれない様子で源三に歩み寄ってくる。
「先生! じいちゃんが……」
「ああ、さっき康太に聞いた。新吉が心当たりを捜しに出ているそうだな」
「うん。でも、心当たりってどこなんだろう。兄さん、じいちゃんに会ったことあるのかな」
独り言のようにつぶやいて、おみつがすがるように源三の袖口をつかんだ。
しかし新吉は、小太郎の顔を知らないはず。彼の言う『心当たり』とは何なのか?
源三は、今後のことに思いをめぐらせようとするが、よい策が浮かばない。
おみつの母だったお小夜のこと。生きていた小太郎のこと。そして、囚われの身である京香のこと。
絡み始めた事実を解きほぐそうとすればするほど泥沼にはまり、頭が真っ白になる。
これからどう振る舞えばいいのかわからない源三の心は、完全に宙に浮いていた――。 |