花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜(47/87)PDFで表示縦書き表示RDF


【用語解説】
・表長屋……表通りで町人たちが店を借りて暮らしている長屋のこと。店は八百屋、魚屋など、庶
民の生活に密着しているものが多い。

・裏長屋……表通りからひっこんだ長屋のことで、一般住居を指す。
花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第四章 四日目−再会・父と母−


 (からす)の鳴き声が、赤く染まった夕空に響き渡る。

 軍太夫や忠直とともに長屋へ着いた源三の目の前に、大きな人垣が出来ていた。

「あ、先生! ちょうどよかったよ」

 源三の向かいに住む左官職人、為吉の女房おつるが、大きな身体を揺らして駆けてくる。

「一体どうしたのだ」

 おつるに手をひかれた源三が表長屋へ近づくと、いきなり、甘い香りが鼻をついた。

「何だ? この(にお)いは」

「わからないけど、突然辺りに漂いだして……。一体、どこの家でこんなもの焚いてるんだよ」

 おつるも、そして忠直もせき込みながらようやく言葉を出している。

 一瞬、甘く感じた空気中の臭気は、徐々に刺激を伴って源三の鼻腔を強く刺激し始める。

「もしや、これは……大麻」

「大麻?」

 口元を押さえた軍太夫が、源三の問いにうなずく。言われてみれば確かに、源三にも覚えのある
臭いだ。

 大麻は、標的の人物に暗示をかける際に用いる、麻薬の一種。修行時、そのように教えられた記
憶がある。

「すまぬが、お小夜さんの家に案内していただきたい」

 軍太夫が二、三度せき込んだのち、源三を見た。

 忠直の方へ目をやるが、彼は、長屋の人達への対応でおおわらわだ。やむを得ず、源三は軍太夫
を連れて、人垣とは逆の方へ歩き出す。

 喧騒が遠ざかり、裏長屋のお小夜の家へ近づくにつれ、源三の鼻を襲う刺激臭が強くなるのがわかる。

 まさか、お小夜が家で大麻を焚いたのか? だとすれば、何のために。

 もし、彼女がおみつの母で、川へ飛び込んだ京香を助けたならば、その目的は……。考えただけ
で恐ろしい。

「どうされました? お顔の色がすぐれませんが」

「いえ、別に……。こちらです。お小夜さん、いるか?」

 玄関先に軍太夫を案内し、襖の木枠を軽く叩く。しかし、中からの返事はない。

 仕事か? いや、そんなはずはない。

「お小夜さん」

 再び問うても、反応がない。腹に据えかねた源三は、思い切って目の前の襖を開いた。

 すると、外の空気に染まるのを待ちかねていたような強い臭気と煙が、源三らを襲う。

「……源三殿。この空気が漏れては……」

 顔を覆い、せき込みながら言う軍太夫にうなずく。素早く土間へ足を踏み入れ、扉を閉めた。

「やはり、ここが大元か」

 くぐもった声で、軍太夫がつぶやいた。

 いてもたってもいられない源三は、白くたちこめた煙の向こうに目を凝らす。

 女性の一人住まいだけあって、部屋はきれいに掃除されているのがわかる。ところが、中央に敷
いてあるせんべい布団が、不自然な形でめくれていた。

「源三殿!」

 軍太夫が制するのにも構わず、源三は部屋の中央へ歩を進めた。

 冷えた布団の中央が、ほのかに温かい。確かに、この上で誰かが寝ていた。

 大麻が焚きしめられたこの部屋で、お小夜が寝ていたとは考えにくい。

 と、いうことは……。

 思いを巡らせた源三の後方から、小さな物音が聞こえる。

「……お小夜」

 軍太夫の声に振り向くと、開いた扉の向こうに、目を見開いたお小夜が立っていた。

 近くにいた軍太夫が、身をひるがえして逃げようとする彼女の手を引き、襖を勢いよく閉める。

「一体……何の用です」

 低い声で、お小夜が問うてくる。動揺が隠しきれないのか、顔は青ざめ、身にまとう茶色の着物
の袖口が小刻みに震えている。

 一方の軍太夫も、普段の冷静なたたずまいはなく、顔をこわばらせたまま、お小夜を凝視している。

「お小夜さん」

 緊迫した空気に、源三が割って入る。お小夜の血走った目が、源三に向けられた。それは、いつ
も穏やかな笑みを絶やさなかった彼女のものではなかった。

「ここで、何をしていたのだ? お小夜さん」

 はやる気持ちを抑え、源三は慎重に訊ねた。

「別に何も……。先生こそ、人の家に勝手に上がりこんで、何をするおつもりですか?」

「ここで、一人の女人に暗示をかけたのではあるまいな」

 源三が一番訊きたかった、しかし、訊くのが恐ろしかった内容を、感情のない声で、軍太夫が問う。

「何を仰っているかが、わかりませんが」

「とぼけるな!」

 軍太夫の怒号が、部屋に響いた。しかし、お小夜は顔色を変えることなく彼を見据え、逆にこう
問いかけてきた。

「……だとしたら、どうするおつもりで?」







ネット小説ランキング>歴史部門>「花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜」に投票 ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。(月1回)





ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう