第四章 四日目−手がかり−
「確か、あなたは……」
目の前にいるのは、江戸へ来てすぐの頃、源三の家に泊まった翌朝に出会った女性、お小夜だった。
「一体、どうなさったんです?」
「ちょっと……」
心配そうな表情のお小夜が問うてくるが、はっきりとは答えられない。
扉の向こうで、複数の足音が近づく。顔色が変わったのを察知したのか、お小夜がおみつの手を
引っ張り、ついたての向こうへ自らを匿ってくれる。
お小夜の手がおみつの肩を抱き、二人の身体がこれ以上ないほどに密着する。
おみつの鼻をくすぐる、甘い香り。今まで感じたことのない安心感に、なぜかおみつは、
(お母さん、ってこういう人のことを言うのかな)
と、お小夜の胸に頭を預ける形でぼんやりと思う。
「どうやら、行ってしまったみたいね」
お小夜の身体が、おみつから離れた。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
頭を下げたおみつに、
「いいのよ。気になさらないで。でも、先生を心配させることをしては駄目よ」
微笑を浮かべながら、お小夜は身支度を始めた。
「どこかに、行かれるんですか?」
「ええ。仕事がまだ残っているものだから。……あら」
おみつのひじのあたりを見つめ、お小夜が袖をめくる。
「怪我をしているじゃないの」
さっき、忍びとやりあった時についた、ほんのかすり傷。
「大丈夫ですよ。これくらい。紀州にいたときはしょっちゅうだったから」
「……紀州?」
お小夜の手が止まり、おみつを凝視する。
「ええ。……何か?」
「いえ。別に」
おみつから視線をそらし立ち上がると、お小夜は戸棚から膏薬らしきものを持ってきて、傷口に
やさしく塗ってくれる。
「さ、これでいいわ」
「ありがとうございます。あの」
さっきのお小夜の反応が気になったおみつの問いかけをさえぎるように、彼女は背を向ける。
「しばらく、ここにいるといいわ」
「え?」
「まだ、あなたを追っている人たちがこの辺にいるかもしれないでしょう? 出る時に戸締まりだ
けお願いしますね」
「お小夜さんは……紀州にいたことがあるんですか?」
出て行こうとするお小夜を呼び止めるように、おみつは声をかけた。
「いえ」
短く言うと、お小夜はおみつに目もくれず、外へと出て行ってしまった。
一人取り残されたおみつは、小さくため息をついてその場へ腰を下ろす。
紀州、という言葉が出ただけで、態度が変わったお小夜のことが、気にかかる。
これはおみつの想像でしかないが、恐らく彼女は紀州にいただろう。そして、何かつらい思いを
して、江戸へ出てきたのかもしれない。
江戸へ出てきてからつらい思いをしている自分とは正反対だな――おみつは自嘲的に笑った。
父からすべてを聞いた。いずれ、死なねばならない運命だろう。
だったらその前に、祖父の仇を討ちたい。いや、せめて、自分を助けてくれた京香を、自分の手
で捜し出したい。
それだけを思い、後先考えずに道場を飛び出したものの、広い江戸で、自分はどう動いたらいい
のか、今は皆目見当がつかない。
父の追手が確実に自分を追い詰めている。無鉄砲に動いても、自らの命を縮めるだけ。
どうすればよいものか――。
思いを巡らせるが、何一つ解決策は浮かばない。それどころか、次第に眠気が襲ってくる。
少しだけ、眠ろうか。お小夜も、ここにいていいと言ってくれたし。
源三の部屋とほぼ間取りは同じだが、男所帯と違って掃除が行き届いているせいか、ちり一つ落
ちていない。壁には豪華な刺繍をほどこした着物がたくさんかかっており、彼女の仕事が繁盛して
いることを物語っている。
「きれい……」
おみつは思わず、目の前にある黒い着物を手にとった。そのはずみで、横にかけてあった桃色の
振袖が、おみつの足元に落ちる。
「いけない」
慌てて着物を拾い、元通りにかけ直した。そして裾を直そうとかがんだおみつの目に、この場に
似つかわしくない、地味な色の着物が乱雑に置いてあるのが見える。
たたみ直そうと手に取ったおみつの視線が、ある一点で止まった。
自分から向かって右側の袖口が大きく切り裂かれていて、人の血らしきものがべっとりとついている。
(この着物は……)
おみつを助けるために川へ飛び込んだ京香が着ていた小袖に、間違いない。
思わず、目の前の押入れのふすまを開いた。
しかし、人が寝ているような気配は感じられない。
(どうして、これがここに? お姐さんをどこへやったの?)
お小夜に事情を訊こうと思ったおみつは立ち上がり、家の外へと飛び出す。
しかし、彼女の姿はもう、どこにも見えなくなっていた。 |