第一章 一日目−異母兄妹−
天膳から指令が下りて一夜明けた朝、麻の布地を薄紫に染めた小袖に袖を通した京香は、作りたての煮物を持って浅草へ向かっていた。
従兄弟の源三が元服し、天膳からの命令で剣術の道場を開いて約五年。
京香は、家事を全くしたことのない彼のために、朝食の支度と一日おきの洗濯、ならびに部屋の掃除は欠かしたことはない。
雲ひとつない空を見上げた京香の吐く息はすでに白く、冬が近いことを思わせる澄んだ空気が肌に心地いい。
しばらく歩いたところにある、大川をまたぐ小さな橋を渡ったたもとには、岡っ引だけでは食べて行かれない新吉が経営している茶屋の建物が見える。
さっき作った煮物は、源三と二人で食べるには少し多いし、新吉のところへおすそ分けでもしようか。
胸元の風呂敷包みを見ながら思った京香は、小さな建物の粗末な作りの戸を引いた。戸締りをしていないところを見ると、まだ仕入れには出かけていないのだろうか?
「新さん、おはよう」
戸の向こうにかかっている紺色の暖簾をくぐり、中に入る。しかし、新吉の姿は見えない。
「新さん、いないの?」
入り口の近くの机の上に包みを置き、声をかけた京香の背後に、知らぬ気配が近づいた。しかもそれは、自分に対するかすかな殺気を含んでいる。
今、京香が持っているのは護身用の短刀のみ。
それを抜いたときの距離を計算し、胸元に手を入れるよりも早く、その気配が近づく。
一瞬のうちに、相手の刃物が京香の首筋を捉える。
「おとなしくしないと、怪我だけじゃすまないよ」
自分よりも少し高い位置で聞こえる、低い声。
(――男、か)
武芸百般を修めている京香といえども、男と女の力の違いにはかなわない。
相手の隙をつき、一旦この男から逃れなければ。
京香は、わきあがる恐怖心を飲み込んで、小さく息を吸った。
そしてかすかに手を動かし拳を握ると、それを力の限り後ろへ叩きつけた。
にぶい手ごたえとともに、いすの転がる音などがして、男の体が離れる。
京香は胸元に手を入れ短刀を取り出すと、逆手に持って目の前に構えた。
「さあ、出ておいで」
机の向こうに隠れ、息を潜めている男に声をかける。しかし、相手はまったく動かない。
「何を盗りに来たのかは知らないけど、この店には金目のものなんてひとつもありゃしないんだから」
「それはこっちの台詞よ!」
反論した言葉を聞いて、京香は思わず目を見開いた。
声はさっきと変わらないのだが、物言いが男のものとは明らかに違っている。
「こんな朝早くから、いったい何のつもり!?」
立ち上がった声の主を見た京香は、驚きのあまり声を失った。
長く、豊かな髪を後ろで馬の尻尾のように一つに結び、灰色のはかまの上に同じ色の羽織をはおっているのは『少女』なのだ。
「あんた……、誰なの?」
ようやく言葉を出した京香だが、今度は少女が、小さく肩をすくめてから目をそらし、黙り込む。
「ちょっと、何とか言いなさいよ」
京香の言葉が終わると同時に、茶屋の扉が開いた。思わず振り返ると、そこには驚きの表情を固めたまま立ち尽くす、新吉の姿があった。
「姐さん、……おみつ」
「兄さん」
おみつの口から出た思いがけない言葉に、京香の頭は混乱していた。
「ちょっと、新さん」
「おみつ! お前あれほど部屋から出るなって言っただろう」
京香にかまうことなく、新吉がおみつに詰め寄っている。
「だ、だってこの人が突然」
「この人は、ここのなじみの京香姐さんだ。朝早くに来ることがあるからって言ったじゃないか」
「聞いてないよ。そんなこと」
「やめなさい!」
取っ組み合いの喧嘩になりそうな勢いの二人に割って入って、京香は叫んだ。
「とにかく、説明してくれる? 新さん」
入り口のほうに顔を向けて、新吉をうながす。
「……あいよ。おい、おみつ。今度は部屋でおとなしくしてろよ。わかったな」
観念したような表情で新吉はうなずくと、京香より先に、裏口から外へ出た。
冷たい風が、京香の頬をそっとなでていく。
「実は……、おみつは俺の妹なんだ」
「妹? でも新さん、あんた、林殿の末っ子のはずじゃ」
「ああそうさ。……親父のなかじゃな」
昇りたての太陽に背を向けた新吉は自虐的に言うと、腕組みをしたまま小さく鼻で笑った。
「え?」
「おみつは妾の子でね。俺たち三人と完全に血がつながっているわけじゃない」
新吉の言葉に、京香は呆然と彼を見た。
「おみつはずっと、虐げられて生きて来たんだ。血のつながりが半分しかない。それだけで上の二人にいじめられた。かばっても俺の力じゃたかが知れてる。なのに親父はかばってもくれなかった」
「……そんな」
「そればかりか、吉宗様が将軍になることが決まって江戸へ出てくるとき、ずっとおみつをかばってきた俺は公儀御庭番衆からはずされて、おみつは紀州へ置いていかれた。……捨てられたんだよ」
京香には信じがたいことだった。
小さなころ、誰にも負けたくない一心でひそかに特訓をする自分に、軍太夫は温かい視線を注いでくれていたのに。
「常に穏やかな表情で優しい。そんなのは表の顔だ。裏じゃ、自分に役立てないものは容赦なく切り捨てる。それがあいつのやり方さ」
京香の動揺を見て取ったのか、新吉は怒ったように吐き捨てる。
「俺は、おみつを捨てたあいつを許さない。絶対に」
「新さん……」
長く一緒にいたはずなのに知らなかった、新吉の過去。彼が持つ妹への深い愛情と、父親への強い憎しみ。
それをまざまざと見せつけられた京香はこれ以上、言葉を告ぐことができなかった。 |