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花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第四章 四日目−出生の秘密 其の四−


 康太の言葉が心に突き刺さったのか、軍太夫はうつむいたまま動かない。

 声をかけたいのに、おみつは、ただじっと見つめることしかできなかった。

 ひとことでいい。軍太夫の口から、自分を愛しいと思った瞬間があったと言われれば、望まれて
産まれなかった魂が、ほんの少しでも救われるような気がする。

 しかし軍太夫は口を堅く閉ざし、時間だけが過ぎていく。

「林殿」

 おみつのじれったさが頂点に達しようとした瞬間、今まで黙っていた源三が、静かに口を開いた。

「先ほど、あなたはおみつの母親を愛したことを『あやまち』と言った。しかし、本心は違うので
はないですか?」

 源三の『あやまち』という言葉が、おみつの心の傷を小さくえぐった。だが、それに反応したの
か、軍太夫の顔が、かすかに源三の方を向いた。

「我ら隠密は、己を犠牲にして上様に忠義を尽くすのが暗黙の掟。ですが、やはりその前に人間で
す。人間である以上、自分が愛し、慈しんだものをそう簡単に切り捨てられるとは思えません」

 いつもと変わらぬ姿勢で語る源三の口調が、いつになく熱を帯びている。

「その証拠に、私が『おみつが伏せっている』と告げたら、あなたは一瞬だけ顔色を変えました。
話してくださいませぬか? 本当の思いを。そして、おみつを母親から引き離した理由を」

 軍太夫に向き直った源三の言葉が、おみつの胸を再度突いた。

「引き離した? ……母さんは、死んだんじゃなかったの?」

 消え入りそうな声で問うたおみつに、軍太夫はうなずいた。とっさに康太の手を振り払って中に
入り、父の前に座る。

「ひどいよ父さん。私を置いてけぼりにする前に、母さんを追い出してたなんて! いくら、風魔
の血を引いてるからって、そんなの……」

 軍太夫の膝を何度も叩いたおみつの目から、また涙が流れ落ちる。

 そんなおみつの拳を、軍太夫が握りしめた。驚き、見上げたおみつを一瞬だけ優しく見つめ、再
度視線をそらす。

「……お二方の、言うとおりです。私は、母子を心の底から愛していた。しかし、私の弱さが、
おみつの母親を紀州から追いやる遠因になったのです」

「父さん……」

『心の底から愛している』 父から出た思いがけない言葉に、おみつの視界が再度ぼやける。

「彼女が風魔の末裔であることを知ったのは、おみつが産まれてすぐのころでした。当時、若輩者
でありながら、紀州和歌山藩五代目当主であらせられた吉宗様のお側近くに仕えていた私のことを
疎んじていた男が、こう語りかけてきたのです」


   ◇◇◇◇◇


『軍太夫殿、新しい妻を(めと)ったらしいな。もっぱらの評判だぞ』

 その日の任務を終え、一旦宿所へ戻ろうとした軍太夫を、大月兵部(びょうぶ)が呼び止めた。

『妻? ご冗談を。旅の途中で行き倒れた者たちを助け、住まわせているだけのこと。他意はござらん』

『そうか? ずいぶんと美しい娘と共に、子供をあやしている姿を見たものは数知れぬ。なあ』

 ぎょろっとした目で無理やり笑顔を作り、周りにいた仲間らに声をかける。

『あれは、知り合いの子をあやしていただけのこと。では、御免』

 下卑た笑いを顔に張りつかせた男達の間を割り、出て行こうとした軍太夫の背中に、兵部が言葉
を投げつける。

『徳川家の敵である風魔の娘とねんごろになっておると、吉宗公のご不興を買うぞ。お気をつけなされ』

(風魔の……娘?)

 思いがけない兵部の言葉に、軍太夫の思考が止まった。

『やはり、ご存知なかったと見える。そなたがこの地に住まわせているあの父子は風魔の末裔。
今から五日前、里のはずれで風魔の下忍である『草』と呼ばれるものとつなぎを取っているのを、
山口殿が見ておられる』

 大きな目に、鼻筋の通った端正な顔に笑みを浮かべ、山口友三がうなずいた。この者も、兵部と
親しい忍びだ。

『早いところあの父子を追い出すか亡き者にすることですな。林殿。さもなくば、あなたの亡き奥
方が遺した三人の愛息にも、何らかの危害が及びましょうぞ』

 友三の言葉が、辺りに再び嘲笑を呼び込む。

 しかし、その嘲笑う声を引き裂くように人垣を割り、軍太夫は駆け出した。

 城を抜け出し、林道を駆け抜ける軍太夫の耳に、獣の咆哮が飛び込んでくる。

 娘は……本当に風魔なのか? 妻を失った自分の寂しさを埋めてくれたばかりか、亡き妻との間
にはなかった「真の安らぎ」を与えてくれた彼女が、旧敵の末裔とは、信じがたい。

 しかし、「忠義第一」を叩き込まれた軍太夫の心は、月のない夜よりも深く、濃い闇に包まれて
しまっていた――。







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