花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜(30/87)PDFで表示縦書き表示RDF


花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第四章 四日目−砕かれた希望−


 太陽が顔を出した空の向こうで、(すずめ)が鳴き始めた。

 源三が愛用している厚手の半纏(はんてん)を羽織り、うつらうつらしていた新吉は、その声で目を覚ます。

「新吉。ちょっといいか」

 緑の着物に白い前かけをつけ、髪を立髪(たてがみ)に結った康太が、白い着物に着替えさせたおみつの胸に手
を当て、状態を確認する。

「さすが新吉の妹だな。もう、命の心配はないだろう」

 まだ目を覚まさぬおみつの脈を取った康太の言葉に、新吉は心の底から安堵した。

「すまないな。康太。今日も診療があるんだろ?」

「気にするな。俺の代わりはいくらでもいるさ。それに清水様から、何かあった時にはお前らの手
当てを優先してくれ、ってお達しも出てる」

 花ぐるまの一員となるべく修業を積んでいた子供の中で、新吉らと最後まで()っていた康太
だったが、その最中に身につけた薬草の知識などを天膳に高く買われて長崎に留学。最近、医師と
なってこの江戸に戻ってきた。

 昨晩、源三に乞われてここへ来てから、詳しいことは何も訊かずに、ずっとおみつを診ていてく
れたのだ。それが、新吉にはどれほど心強かったか。 

 だが、おみつと共に川に飛び込んだ京香と、彼女を捜しに出た源三はまだ、帰って来ない。

 源三は、京香を捜し出せたのだろうか。そして何より、彼女は生きているのか。

 考えるだけで、胸がかきむしられるように、痛む。

『少し頭を冷やしなさいよ。あの子を放っておけないのは、あんたが一番よく知ってるじゃないか』

 最後に聞いた京香の言葉を思い起こし、新吉は唇を噛み締めた。

『祖父の仇を討ちたい』――自分に、おみつの切なる願いを汲み取ってやるだけの余裕がありさえ
すれば、おみつを、そして京香を命の危険にさらすことなどなかったのに。

「二人がこうなったのは、お前のせいじゃねぇよ」

 新吉の気持ちを見透かしたように、康太が笑う。

「京香が、そうそう死んでたまるかよ。お前だってよく知ってるじゃないか」

「……え?」

「もう忘れたのか。葵の件」

 新吉の脳裏に、ふと、七年前に命を落とした少女、葵の顔がよみがえった。

 幼かった頃のおみつのように、毎日、遅くまで残されてはべそをかいていた。

 そんな葵を放っておけなくて、新吉はよく、彼女を馬鹿にした康太や他の仲間達と喧嘩したもの
だった。

「あの晩、一緒に脱走したのに京香だけ帰ってきやがってよ。……あれからあいつは変わったんだ」

 そう……だった。

 あれ以来、京香は葵のことを心の中に封印して厳しい修業を積んだ。源三にはどうしても(かな)
わなかったが、新吉や康太を凌ぐほどの実力を身につけて、花ぐるまの一員になったのだ。

「京香は、おみっちゃんを守りたかったんだろうな。葵の代わりってわけじゃないだろうけどよ」

 康太の視線の先には、頬にかすかな赤みがさしたおみつが、未だ眠り続けている。

「大丈夫さ。今に、先生が京香を連れて帰ってくるよ。そのときはまた、俺の出番ってわけだ」

 拳を握って二の腕を叩き、どこまでも明るく話す康太に、新吉の心がふっと緩んだその時、道場
の入り口の扉が開く音がした。

 康太と顔を見合わせ、新吉は玄関先へ歩いていく。

「先生。どうしたんだ? その格好」

 新吉の背後にいる康太が驚くのも無理はない。

 いつもは髪をきれいに結い、こぎれいな着物を身にまとっている源三が、それとは真逆の格好を
しているのだから。

「川下まで、ずっと流れを追って行ったのだ。だが……」

 しぼりだすような、源三の声。その先の言葉はもう、聞かなくてもわかっていた。

 新吉は思わず天を仰ぎ、目を閉じた。







ネット小説ランキング>歴史部門>「花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜」に投票 ネット小説の人気投票です。投票していただけると励みになります。(月1回)





ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう