花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜(25/87)PDFで表示縦書き表示RDF


【用語説明】 
・夕七つ……今の時刻に換算すると、午後三時から午後五時の二時間。

・暮六つ……今の時刻に換算すると、午後五時から七時までの二時間
花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第三章 三日目−すれ違う心−


 線香の煙とともにわき立つ香りが、暗い室内から廊下にただよっていた。

 小太郎は、源三の道場の裏口に面した一室で、覚めることのない眠りについている。

 奉行所からは、小太郎は酒の飲みすぎで川に転落した、との判断が下された。

 しかし京香は、そうは思っていない。それは新吉も同じであろう。

 なぜ、おみつを置いて江戸に出て来たかはわからぬが、もし、重要な任務を帯びていたのなら、
前後不覚になるまで酒を飲む、ということはありえないはずなのだが。

 (からす)の鳴き声が、灰色の小袖に身を包んだ京香の耳に届いた。

 外に目をやると、もうそろそろ、ぬけるように青かった空が、黒に塗り替えられることを告げる
夕陽が、建物の向こう側で最後の輝きを放っているのがわかる。

 京香は、火付石と油を持って、おみつらがいる部屋へ入っていく。

 数回音を鳴らし、中央にある行灯に灯りをともすと、じっと身じろぎせずに座っているおみつの
背中が、夕闇のなかに浮かび上がった。

「おみつさん、ご飯よ」

 今朝、稽古をしたときと同じ服装のままのおみつは、何も言わずに首を振る。

「少しは食べなくちゃ。明日はおじいさんの野辺の送りだし、あなたまで倒れたら、おじいさん、
きっと悲しむわ。ね」

 京香を見上げたおみつの目は赤く染まり、たくさんの涙を流した後が、頬にくっきりと残っている。

 新しいろうそくと線香を立てて小太郎に手を合わせた京香は、無理に笑顔を作っておみつを見た。
 
 こうでもしなければ、自分が、彼女の悲しみに引きずられてしまいそうだったからだ。

 声を出さずに再度うながすと、おみつは小さくうなずいて立ち上がる。

 自分より少し背の大きいおみつが、何故か小さく見えた。



「あら、先生は?」

 京香は、源三に用意した夕食に全く手がつけられていないのを見て、新吉に訊ねた。

「早馬が呼びに来て、清水様の屋敷に行ったよ」

 ああ、そうか。京香は思う。

 事件が起きると、その日の探索結果の報告を夕七つから暮六つまでに行うことになっているのだ
が、今日は、早朝から小太郎とおみつのことにかかりきりで、事件の探索どころではなかったのだ。

 源三は、今日のことをどのように天膳や忠直に報告するのだろうか?

 新吉もそれが気がかりのようで、夕飯に全く手をつけていない。

 そして、おみつも。

 箸すら持たず、ただじっと一点を見つめている。まるで、何かを決心するかのような強い目で。

「さ、食べましょう! せっかく作ったのに、さめてしまうじゃないの」

 京香は、沈みがちな空気を盛り立てようとわざと明るく振舞う。
 
 しかし、二人は自らの世界に閉じこもったまま、扉を開かない。

 京香はあきらめて、自分のお膳に手をつけ始めた。

 道場のあたりには、子供らが遊ぶ音すら聞こえない。さっきから京香の耳に入ってくるのは、
悠然と鳴き続ける、鴉の声だけだ。

「おみつ。明日、じいさんの野辺の送りが終わったら……、紀州へ帰れ」

 沈黙を引き裂いた鴉の鳴き声のすぐあとに、新吉が告げた。

「こう言っちゃ何だが、じいさんは死んだ。お前がもう、江戸にいる理由はないだろう」

「新さん、こんなときに言わなくたって」

「……ない」

 おみつの小さな声が、京香の言葉をやんわりとさえぎった。

「え?」

「紀州へは……帰らない。まだ、やらなきゃいけないことが残ってる」

「何だと?」

 新吉が鋭い目つきでおみつを見た。おみつも負けずに、強い決意を込めて兄を見返す。

「じいちゃんの仇を討つ。そうじゃなきゃ、紀州には帰れない」

「仇? 何ぬかしてるんだ。おまえのじいさんは酒の呑み過ぎで」

「違う! 殺されたんだよ!」

 机を強く叩き、おみつが新吉の言葉をさえぎった。漬物をのせた小皿がはね上がり、床の上に落
ちていく。 

「じいちゃんは、お酒なんか飲めなかった。一口飲んだだけでも、顔を真っ赤にするくらい弱かっ
たの。そんなじいちゃんが、お酒を飲み過ぎて死ぬなんて、絶対ありえないよ」

「だからって、殺されたっていう証がどこにある?」

 一段と低い声で、新吉がおみつに問うた。

「それは……これから捜すよ。犯人だって、私の手で」

「いい加減にしろ!」

 堪忍袋の緒が切れたのか、おみつよりも強い力で机を叩き、新吉が立ち上がった。

「お前がここにいることで、どれだけの人間に迷惑がかかるのか考えたことがあるのか? お前はな」

「新さん!」

 このままだと、おみつに知られたくないことまで言い出しかねない。そう感じた京香は、新吉を
強く制した。

 我に返ったのか、新吉が苦々しい顔でおみつから目をそらす。

「……迷惑なの? 私」

 呆然とつぶやくおみつの顔から、感情が消えた。

「おみつさん。新さんはそんな意味で言ったんじゃ」

「私はここに……、江戸にいちゃいけないの? じいちゃんの仇も取っちゃいけないの!?」

 京香に構わず新吉に近づき、肩を横から揺さぶっておみつが問う。

「そうだ。だから帰れって言ってるんだ。そんなこともわからないのか!」

 おみつの顔が、ゆがんだ。しかし彼女は歯を食いしばり、必死に涙をこらえている。

「……わかった。もういい!」

 それだけ言うと、おみつは乱暴に戸を開けて部屋から出て行く。

「おみつさん!」

「姐さん、ほっとけ!」

 頭に血がのぼった京香は、手元にあったお茶を、新吉の顔に勢いよくかけた。

 水しぶきが辺りに飛び散り、木の机に大小さまざまなしみを作っていく。

「少し頭を冷やしなさいよ。あの子を放っておけないのは、あんたが一番よく知ってるじゃないか」

 水がしたたるのも構わず立ち尽くす新吉を、唇をかみ締めて一瞥(いちべつ)する。

 そして、おみつを追いかけるべく、闇夜に向かって京香は走り出した――。







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