花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜(21/87)PDFで表示縦書き表示RDF


花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第二章 二日目−追憶・其の四−


 暗闇にいた京香の意識を、降り注ぐ陽の光が引き戻した。

 ゆっくりと目を開け、辺りを見回す。

 木を寄せ集めて作ったような粗末な壁、何本かの木で格子状に作った小さな窓。

 そして、雨が降ったら間違いなく漏れてくるであろう、穴だらけの天井。

『気がついたようだね』

 低く、少し枯れた男性の声が、少し遠くに聞こえた。

『……ここ、は』

 京香は寝たまま、声のした方向へ問うた。

『さあ。あの世でないことだけは確かじゃな』

 少し揶揄を含んだ物言いだが、不思議と腹は立たなかった。

『ほれ、飲みなさい』

 顔を上げた京香の目の前に現れたのは、白い髪を無造作に伸ばした、皺だらけの顔に柔和な笑み
を浮かべた老人だった。

 ゆっくりと起き上がり、差し出された茶碗を受け取ると、欠けた箇所に口をつけないようにしな
がら、白湯を少しずつ飲み干す。

『よく、生きておったな』

 驚いた京香は、視線を老人のほうへ移した。

 しかし薬を調合しているのか、老人はごりごりと音を立てて動かす手元から目を離さない。

『お前さんの前に逃げ出した幼子達は、野犬に食われるか崖下に落ちるかして、全員あの世へ行っ
ておるというのに』

 京香は思わず身構えた。

『……あなたは一体、何を知ってるの?』

 発する声が、いつもより格段に低い。

『昨夜あったことは、忘れなさい。それがお前さんのためじゃ』

 忘れろ? 葵のことを。

 まだ小さな自分にすがりつき、親に会うことを夢見て逝ってしまった幼子のことを。

『それは……できません』

 未だこちらを見ぬ老人を見つめて京香は言い切る。

『何故じゃ』

 老人の声は、いたって静かなままだ。

『自分の腕の中で消えた命を、あなたは忘れることができますか?』

『……』

『理由も聞かされずに連れてこられて、地獄のような日々を過ごして、両親に会えずに、命を落と
したあの子のことを、私は忘れることなんてできません』

 口に出した言葉が震える。鼻の奥が熱くなり、頬をいくすじも涙がこぼれ落ちる。

『忘れられないのは、一瞬だけ。あんたもじきに、その子のことを忘れる日が』

『忘れない! 絶対に』

 激情を吐き出すように、京香は叫んだ。

『紀州に帰って、あの子の両親に伝えるの。生きていた証を、伝えなきゃならないの!』

『それは許されん』

『どうして!?』

 ようやく京香を見た老人の目が、怪しく光った。

 背筋に、冷たいものが駆け抜ける。

 ここを一歩でも出ようとしたなら、自分の存在など露のように消されてしまいそうな、静かな殺気。

『命が惜しくば、迎えが来るまでおとなしくしてることじゃ』

 老人が再び目をそむけたのと同時に、草をかきわけるような音が京香の耳に届いた。

 一瞬の沈黙。そして。

 土と木のすれる大きな音がした、扉が開いた。

『京香!』

『……源三様』

 おでこに無数の汗の玉を浮かべた源三は、京香の姿を確認すると心底安堵した様子で中へ入ってきた。

『あなたが、京香を救ってくれたのですか』

 京香の隣で向き直った源三の顔を見る老人の表情は、最初に見た柔和な表情に戻っている。

『本当に、ありがとうございました。……あの、もう一人、幼い子がいたと思うのですが』

 葵の安否を問うた源三の言葉が、心に突き刺さる。

『あの』

『もう一人の幼子は、このお嬢さんのそばで息絶えておった』

 老人の思いがけない言葉に、京香は思わず息をのんだ。

『遺体はいたみが激しかったのでな。勝手なことをして申し訳なかったが、この家の裏にある丘に
埋葬させてもらったよ。真新しい石碑を建ててな』

 どうして、そんな嘘を。

 京香の視線に気づいた老人が目配せをしてきた。

 口の端にのぼらせかけた言葉を、ぐっと飲み込む。

『……そうでしたか。本当に、何から何までありがとうございました』

 手をつき、深くお辞儀をした源三を見ていられなくて、京香は目を伏せた。

『京香は連れて帰れますか? 皆が、心配しておりますので』

『ああ。帰ったらこの薬を飲ませるとよい。傷につける膏薬と一緒にな』

 袋を受け取った源三に支えられ、京香は立ち上がる。

 全身傷だらけの身体より、葵を救えなかった、そして、紀州に帰れない悔しさとやるせなさで、
京香の心は激しく痛んでいた。 







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