花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜(20/87)PDFで表示縦書き表示RDF


花ぐるま事件帳〜恩讐の彼方〜
作:笠原綾乃



第二章 二日目−追憶・其の三−


 遠くへ逃げたい。

 葵の手を引き、走る京香の頭には、その考えしかなかった。

『あっ!』

 握っていた葵の手が突然、離れた。

『葵?』

 振り返ると、小さな身体がうつぶせになって倒れている。

 引き上げて起こそうとするが、なぜか起きない。

 それどころか、葵は火がついたように泣きじゃくる。

 葵の足元に向かい、手を添える。突然の冷えた感触に、思わず京香は手を引いた。

 ――これは。

 葵の足をがっちり掴んで離さないのは、たくさんの刃がついた、鉄製の大きなはさみだった。

 京香ははさみを両手で開き、葵の足を引きずり出そうとするが、一瞬でも力を抜くと、刃が再び
彼女の肌に食い込んでしまう。

『いたい。お姉ちゃん』

 葵の泣き声はだんだん大きくなるばかりで、京香は少しずつ苛立ちを覚えていた。

 なぜ、こんな目に遭わなければならない?

 親元に帰りたいだけなのに、なぜ、神様は私達の邪魔をするのだ?

 そんな京香に、心の中で、魔物が断続的にささやきかける。

「逃げろ」と。

 ここで葵にかまけていては、知りたかったことを知らずに命を落とすぞ、と。

 京香はその思いを断ち切ろうと、首を何度も横に振った。

 ここで逃げたら、葵の命は露と消える。

『葵、もうすぐだからね。頑張るのよ』

 自分に言い聞かせるように、葵に話しかける。

 しかし。

『葵?』

 泣き声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

『葵! 眠っちゃ駄目! 葵!!』

 京香は葵の足元から移動すると、冷えた頬を必死に叩く。

『お姉ちゃん……、ねむいよ』

『葵、しっかりするのよ。今、助けてあげるから!』

 思わず叫んだ。しかし、こんなとき、どうしたらいいのだ。

 助けを呼べない。かと言って、この刃をはずす方法もわからない。

 頬を叩く手は震え、双眸からは涙がこぼれ落ちる。

『お姉…ちゃん、さむい……』

 京香に向かって差し出す小さな手を握りしめ、葵を抱きしめる。

『葵、お願いだから眠らないで。眠ったら死んでしまうのよ!』

 京香は葵の耳元でささやいた。

 最初こそはうなずいていた葵だが、その動きが少しずつ小さくなっていく。

『葵、眠っちゃ駄目!』

 あらん限りの力を込めて叫ぶが、葵からはもう、何の反応も返っては来ない。

 その瞬間、京香の首に回されていた手が外れ、腕に葵の全体重がのしかかった。

『…………葵?』

 力の抜けた葵の身体を離し、頬に手をやる。

 まだ、ほんの少しだけ温かい。なのに。

『葵、起きて。葵!』

 京香の声はもう、葵には届かない。

 どうして?

 葵はただ、足にけがをしただけ。なのになぜ、この世からいなくならなければならない?

 両親に会いたい一心で、暗い夜道を、京香の手を頼りに歩いていた。

 ただ、それだけなのに。

 頬に落ちる涙をぬぐうことも忘れ、葵の亡骸を抱きしめる京香の身体を、風が吹き抜けた。

 それに乗って、さっき追い払ったはずの奴らの臭いが京香の鼻をかすめる。

 こんな暗いところに葵を置いてはいけない。

 しかし、このままここにいたら、今度は自分が餌食になる。

 涙を拭いた京香は、意を決して立ち上がった。

 伝えなくてはならない。

 まだ八歳の葵が、見知らぬところでどんなに頑張っていたのかを。

 そして、最期にどんなに両親に会いたがっていたのかを。

 自分が紀州に帰り、伝えなくてはいけない。

『葵、ごめんね』

 紀州へ帰る。葵の死と生涯を伝え、自分の疑問を解き明かす。

 横たわる葵に背を向け、京香は走り出した。

 近づいてくる獣たちから、まず身を隠さなくては。

 そう思った矢先、京香の足元が突然その姿を消した。

 一瞬だけ、宙に浮いた感覚が身体を捉える。そして。

 京香の身体は、そのまま闇の中へと転がり落ちていった――。







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