第二章 二日目−追憶・其の二−
犬の遠吠えが、暗闇に溶けていく。
まどろみの中、隣で気配が動いたのに気づいた京香は、そっと目を開けた。
『どうしたの? 葵』
『おうちに帰る。帰りたい』
顔は見えない。しかし、震える声で、葵が泣いていることに気づく。
袖口にしがみつき、しゃくりあげた葵をそっと抱きしめて、京香は思う。
そもそも、自分達がこうして集められたのはなぜなのか、と。
父も、母も何も教えてくれないまま、江戸に連れて来られた。
何も聞かされないまま厳しい毎日に身を投じ、自分はもちろん、皆のうっ積は頂点に達しつつある。
このままでは……。いつか、この中の誰かが、仲間である誰かを手にかけてしまう。
京香は知りたかった。
ここに閉じこめられている、本当の理由を。
『お姉ちゃん?』
『行こう、葵。とりあえず……ここから逃げよう』
葵が大きくうなずいたのが、京香の手を握る力でわかった。
◇◇◇◇◇
うっそうと生い茂る葉の音が、耳に障る。
京香は小さな葵の手をしっかり握りしめ、月明かりを頼りに進む。
これまでずっと一緒にいた源三に別れを言えなかったのは残念だが、彼に知られたら止められる
と思ったから、会わずに来た。
『お姉ちゃん、痛い』
京香は立ち止まり、葵の足を見た。小さな枝や小石が刺さり、白い足に筋を作っている。
『ごめんね。気づかなくて』
京香は葵を背負って木の少ないところに移動し、平らな岩場に座らせた。
葵の足に刺さったものを抜く京香の心には、すでに焦りの二文字が横たわっている。
月が沈んでいく方角を頼りに進もうと考えたのだが、思った以上に茂った森を歩くうちに、方角
がわからなくなったのだ。
自分ひとりなら、どんなことをしてでもこの森を抜けることが出来るのに。
ひとりなら、と。
湧き上がった感情を打ち消すように、京香は首を小さく振った。
もともとは、葵のために危ない橋を渡り始めたのだ。いまさら、小さなこの子を置いていくわけ
にはいかない。
『お姉ちゃん、眠たい』
『もう少しで、この森を抜けられるわ。町に出たらきっと、親切な人が助けてくれる。それまで頑
張りましょう。ね』
自分の心を奮い立たせるために、大きな目をしょぼしょぼさせ始めた葵の肩を軽くゆする。
小さくうなずいた葵の手を引き、立ち上がろうとしたそのとき。
辺りの葉が、不自然な音を立て始めた。
生臭い息を吐く音がせわしなく耳に入る。
月に反射した双眸が、距離を置いて京香たちを囲んでいるのがわかる。
おそらく、野生化した犬か狼。しかも、春を迎えたばかりのこの時期はえさも少なく、気が立っ
ているはずだ。
葵の足の傷からただよう血のにおいを嗅ぎつけて来たに違いない。
京香は息をのんだ。ざっと見ただけで三匹から四匹はいる。
ひとつ間を間違えば、二人とも餌食になるのは火を見るより明らかだ。
また、京香の心に魔物がささやく。
「ひとりならば逃げられる。葵を置いていけ」
と。
しかし。
『お姉ちゃん』
自分を信じ、必死にすがりついてくる、小さな手。
(この子は……私が守らなきゃならない)
『葵。お姉ちゃんから離れてはだめよ』
音を立てないようにしゃがみ、足元の石で胸元に忍ばせていた煙玉すべてに火をつけると、地面
に強く叩きつけた。
あたり一面に、煙が舞い上がる。
獣たちがひるんだ隙をつき、葵の手を強く握って走り出す。
追いかけてこないうちに、葵と二人で少しでも遠くへ逃げなければ。
京香はただ、前だけを見て森を駆け抜けた。
(遠くへ。あいつらが追いかけてこられないくらい、もっと遠くへ)
その思いが再び焦りに変わったとき、思いも寄らないことが二人に襲いかかった――。 |