第二章 二日目−追憶・其の一−
いつから京香は弱音を吐けなくなったのか。
それは、自分の弱さが原因で、一人の少女を死に追いやったことに起因する。
そう、あれは……京香が十一歳の誕生日を迎えたばかりの春のことだった。
◇◇◇◇◇
わけもわからぬまま両親と引き裂かれ、厳しい修行に身を投じる日々を送って早三年。
なぜ、自分は江戸に、しかも辺りに何も無い向島へ連れて来られなければならないのか。
どうして両親はそれを許し、便り一つよこさないのか。
その疑問を、修業に没頭し、常に源三の後を追いかけていくことで解消してきたつもりだけど、京香の心にたまったうっ積は、もう、限界に近かった。
現に、江戸へ連れて来られた十人の内、この三年間で脱走した仲間が二人いた。
けれど、その消息は知れない。
ここへ戻ってくることはおろか、紀州に帰ることができたのかもわからないのだ。
住んでいる森林地帯からの外出は禁止され、まるで檻の中に囚われた動物のように身を潜めていなければならないこの生活は、京香をはじめとした遊びたい盛りの子供達にとって、残酷以外の何者でもない。
『もうやだよ。おうちに帰りたいよ』
疲れ切った身体をひきずるようにして領地にある小屋へ帰ったとき、また一人泣き出した。
目が大きく、日に焼けた皮膚がいつも水ぶくれになるくらい色の白い少女、葵。
江戸に連れて来られた頃から、三つ年上の京香を「お姉ちゃん」と慕い、あとをいつもくっついて来る、妹のような存在の子だ。
『おいで、葵』
手招きすると、一目散に駆け寄ってきて、京香の胸で泣きじゃくる。
『うるさいな。さびしいのはみんな一緒なんだよ。なのにいっつも泣きやがって』
前髪をちょこんと結んだ同い年の康太が、葵に向かって叫ぶ。たしか彼は、紀伊和歌山藩大名留守居役の三男だ。
『しかたがないじゃないの。この子はまだ八歳なんだから』
『いつも言われてるじゃないか。お前達は、仲間であって仲間じゃないって。京香は優しすぎるんだよ』
仲間であって、仲間じゃない。
これも、京香には納得のいかないことだった。
厳しい時間のさなか、落ちこぼれそうになる子を助けると、容赦なく飛んでくる拳。
京香はもちろん、常に先頭を行く源三も、続く実力を持つ公儀筆頭御庭番の三男、新吉も同じ憂き目に何度もあった。
『そう言いなさんな。何かあったとき互いに助けられるのは、俺達しかいないだろ』
古ぼけた壁によりかかって目を閉じていた新吉が、皮肉を込めて言った。
『何だよ。俺より年下のくせに、偉そうに』
康太は立ち上がると、まっすぐ新吉のところへ歩いていく。
『やるのか』
顔色一つ変えず、新吉も立ち上がる。
『やめなさいよ。二人とも』
抱いていた葵を座らせた京香が止める間もなく、康太が新吉の頬を殴りつけた。
新吉はすかさず反撃に出る。
日ごろ溜まっていた鬱憤が、このように出るのはしばしあることで誰も驚かないが、なまじ武術などを身につけて来ているので、あまり長引くと大怪我をしかねない。
力が自分と拮抗している新吉はともかく、康太ならまだ止められる。
そう思った京香が康太の背後にまわったそのとき。
『いい加減にしないか。二人とも』
新吉の背後から彼を羽交い絞めにしたのは、源三だった。
『こいつが先に仕掛けて来たんだ。売られたけんかは買わなきゃ気がすまねぇ』
『どっちが先に仕掛けたとかは関係ない。四つに組んでやりあったら、誰が大怪我をするか、わからぬお主ではあるまい?』
新吉に向けた源三の言葉の意図を、京香はすぐに読みとった。
康太も腕を上げては来ているが、まだ新吉にはかなわない。
本気を出したらどちらが怪我をするかは、明白だった。
それを悟ったのか、康太は二人に背を向けると、そのまま走り去る。
『康太!』
源三が後を追った。唇の端から流れ落ちる血を乱暴にぬぐうと、新吉は仏頂面をしてさっきの位置に音を立てて座り込み、目を閉じた。
この新吉も、わからぬ少年だ。普段は何を考えているか全く読めないのに、葵のような小さい女の子が泣かされたりすると、途端に相手に牙を向く。
気まずい雰囲気がただよう室内に、葵の泣き声がまた、ひときわ大きくひびく。
ここにいるのは子供ばかり。ささいな小競り合いは日常茶飯事だ。
しかし今日の出来事が、京香の心に多大な影響を及ぼすきっかけになろうとは、京香自身、まだ気づいてはいなかった。 |