第二章 二日目−いとこ同士・其の二−
暗闇に、犬の鳴き声が響いた。
京香は思わず立ち止まり、辺りを確認する。
昼間は数多くの人が往来し、賑わう両国の通りも、今はほとんどの店が木戸を閉め、静まり返っている。京香以外の人間が歩いている気配は、今のところ感じない。
まだ、おびえているのか。
昼間会った老人が最後に見せた、あの雰囲気に。
(違う。私はおびえてなんかいない)
小さく首を振るが、提灯を持つ手がかすかに震えているのを、抑えることができない。
目を閉じ、あの老人の顔を思い浮かべた京香の背に、冷たいしずくが流れ落ちる。
あの時感じた恐怖は、普段、自らに危機が迫ったときに感じる、冷や水をかけられるような直載的なものではなく、気づけば心に染みてくる、静かで、不気味なもの。
自分の力をひけらかすわけではない。かと言って、京香に対する殺気を隠すことなく、まるで赤子を諭すように忠告してきたあの老人は、一体何者なのか?
『座敷にあがる前には、酒を口にしない』――自ら課した禁を破っても恐怖心を消せない、未熟な自分に腹が立って仕方がない。
「ばかばかしい」
いつの間にか立ち止まり、自分自身を抱きしめていた京香は自嘲気味につぶやくと、歩き始めた。
『浮雲』まではまだかなり距離がある。急がなくては。
足を速めた京香の背後に、足音が迫ってきた。
辻斬りの顔を知っている自分は、いつ何時、襲われるかわからない。
京香はすぐさま、胸元に手を入れた。
いつ襲撃されても対応できるように、歩く速度をゆるめ、息を吸う。
間合いを詰めてきた足音に耳を澄まし、短刀に手をかけたそのとき。
「京香」
後ろから聞こえた声が、京香の心身の緊張を解いていく。
立ち止まった京香に向かって、提灯の灯りが近づいてきた。
「先生。どうしたんですか?」
声が震えないようにお腹に力を入れ、並んだ源三に問いかける。
「浮雲までは遠いからな。送っていこう」
「ありがとうございます。でも、新さんは大丈夫なんですか?」
「新吉の身体はもう問題ない。それより、お前のほうが心配でな」
「……なにがです?」
心の動揺を押し隠して、再度問う。
「座敷前に酒を口にするなんて、京香らしくない。昼間の老人と何かあったのではないかと思ってな」
「別に。新さんの店で言った以上のことはありませんよ」
京香は源三を見ずに、再度足を速めた。これ以上、老人に関する話はしたくない。
「杯を持つ手が震えていても、か?」
源三が少し強い口調で、京香の背中に問いかけた。
(……やっぱり)
源三はすでに、見抜いていたのだ。京香の中に巣食っている、あの老人に対する恐怖心を。
足が止まった京香は、大きく肩を揺らして息を吐き出した。
「……嫌になっちゃう」
「京香?」
「先生は、何もかもお見通しなんだもの」
泣き出しそうな空を見上げ、つぶやく。
「当たり前だ。どれだけの時を共に過ごしていると思ってる」
思わず振り返った京香を、源三の真剣な眼差しが捉えた。
『いつから源三と共に過ごしてきたのか?』
そう問われても、京香ははっきりとした答えを出すことはできない。
気づいたときにはもう、源三は当たり前のようにそばにいた。
「京香」
ゆっくりと近づいた源三が、名を呼んだ。
「男も女も無いこのお役目を果たすために、お前がどれだけ努力しているのかは、俺が一番良く知っている。しかし、何かあったときは頼ってくれてもいいではないか」
京香の肩に置かれた源三の手のぬくもりと優しい言葉が、心の中に沁みてくる。
いつからだろう。
自分の本音―特に弱音―を、出せなくなってしまったのは。
紀州にいた幼い頃は、痛い、悲しいといっては涙をこぼし、悔しいといえば源三が困惑するくらい怒り、楽しければ、時間が忘れるくらい笑っていたのに。
京香はふと、そのきっかけを作ったある出来事を思い出していた――。 |