第二章 二日目−緊張−
階下で聞こえた物音に、源三はもちろん新吉の表情にも緊張が走った。
傍らに置いておいた長刀を手に取り、源三は立ち上がる。
「新吉、おまえは無理をするな」
そう言い残し、源三は階段を駆け降りる。
その先に見えたのは、おみつをかばい、粗末な着物を身にまとった浪人らしき男の剣を短刀で受け止める京香の姿だった。
「京香! おみつ!」
叫んだ源三は刀を抜き峰を返すと、その浪人の肩を打ち据えた。
複数いる浪人と京香の間に割って入り、再度刀を返す。
示現流の「満」の構えを取り、呼吸を整える。
間合いを詰め、上体を沈めてきた別の浪人の肩口に渾身の一撃を繰り出した。
「ぐぇっ!」
血しぶきとともに、男の身体がゆっくりと地に落ちていく。
「くそ! ひけ!」
肩口を抑えた浪人を抱えた男の声で、残りの浪人が蜘蛛の子を散らすように店から出て行く。
京香が源三にうなずき、その者たちの後を追った。
「おみつ、怪我はないか?」
おみつは無言のままうなずいた。視線は、息絶えて横たわる浪人の方へ向いている。
「先生」
新吉が降りてきた。おみつが無事な様子を見て、安堵の表情を浮かべる。
「この男、番屋へ届けなければならんな。新吉、動けるか?」
「それくらいのことならできますよ。おみつ、ここで静かにしてるんだぞ」
再度うなずいたおみつに軽く手を上げて、半纏を羽織り直した新吉が店を出て行く。
見たこともない連中だった。
こいつらは、一体誰を狙ってここへ来たのか?
辻斬りを阻止せんと動く俺達か。それとも、小太郎を捜しに出てきたおみつか。
可能性は五分。しかし、源三には、奴らがおみつを狙って現れたとしか思えなかった。
だとしたら、その理由は?
「先生。どうしたの?」
源三の視線に気づいたのか、おみつが、不安そうな面持ちで訊ねてくる。
「いや。俺と京香が、そなたの腕を新吉に披露する邪魔をしたと思ってな」
「何言ってるんですか。もう」
源三の肩を軽く叩くおみつの顔に、かすかだが、笑みが浮かんだ。
◇◇◇◇◇
方々に散った浪人の一人を追いかけて、京香は大川橋を渡り、浅草へと入った。
人がごった返す雷門を抜けると、その先は東本願寺を中心に多数の寺社が立ち並んでいる。
男は辺りを伺いながらも、まっすぐに目的地へ向かっているようだ。
東本願寺の手前の路地を左に曲がる。男はそのまま、ある武家屋敷の中へ入っていった。
「堀田山城守様のお屋敷だわ」
確か、京香の師匠、春香の馴染み客で、自身も二、三度お座敷に呼ばれたことがある。
それに忠直と同じ老中職で、次期筆頭老中と噂のある、切れ者で有名な男だ。
そんな堀田がなぜ、自分らを狙った浪人と関わりがあるのだろうか。
源三に報告しようと踵を返し、京香は歩き始めた。
すると、背の低い、灰色の着物を着た老人が、何だか頼りない足取りでこちらに歩いてくるのが見える。
「大丈夫ですか?」
目の前でよろけた老人を、抱き起こす。
そんな京香に、齢六十過ぎの男が突然、耳打ちをしてきた。
「これ以上、深入りするのは辞めなされ。じゃないと、そなたの命も危ないですぞ」
京香は思わず、老人を見た。静かな殺気をたたえたその目が、京香の心をざわめかせる。
「……あんた、何者だい?」
「余計な詮索はせぬことです」
老人が言い終わらぬうちに京香は胸元から短剣を取り出し、刃を向けた。
「お嬢さん、あんたも腕は立つようだが、まだまだわしにはかないますまい。おとなしく刀をしまったほうが賢明ですぞ」
……悔しいが、この男の言うとおりだ。
これ以上戦う意志を見せれば、即座に命を落とすのは目に見えている。
ひざを立てたまま動けない京香を、老人は横目で見た。
そして後ろで手を組み、さっきとは違う悠然とした足取りで歩き出すと、そのまま路地を曲がって行く。
しわだらけの小さな顔に、細く優しげな目。なのに、その男がかもし出す空気は、他人の詮索を全く寄せつけないほど強固で、鋭い。
あの老人、一体何者なのだろうか? なぜ、私がこの事件に関わっていることを知っている?
京香の心に、底知れぬ恐怖がわき上がる。老人の曲がって行った方向を見たまま、しばらくの間その場から離れることができなかった。 |