第一章 一日目−冷汗−
駕籠の前で揺れる提灯の灯りが、武家屋敷街へ続く小道を曲がった。
昨夜とは違う経路。
いつ何があってもいいように、南町奉行所に向かっている。
下手人がうまく網にかかった際を考えて、役宅には同心・岡っ引きが待機している。
その灯りを追っている新吉の耳に規則正しく聞こえてきた犬の鳴き声が、ぴたりと止んだ。
それと同時に、辺りの木の葉が不自然にざわめき始める。
(……!)
昨夜の辻斬りとは違う何者かが、両方向から新吉と併走している。
昨日の辻斬りの仲間だろうか?
だとしたら、ここで足止めをしておかなければ、奴が現れたときに乱戦になりかねない。
天膳の乗る駕籠のそばには芸者のいでたちをした京香が、そして番頭に扮した源三もいる。
(多少離れても……大丈夫か?)
新吉は、刃を仕込んだ十手に手をかけた。
立ち止まり、前を行く駕籠との距離を取る。
胸元の棒手裏剣に手をかけると、左右の塀の上を走る影へ投げつけた。
重いものを投げたような音と、手裏剣が瓦に当たったような乾いた音が同時に耳に入る。
とりあえず新吉の前に転がってきた一人目の忍びの胸に、刃を出した十手を突き立てる。
相手がこと切れたのを見届け、十手を引き抜いた。
もう一人の行方を捜そうと立ち上がり駆け出すが、まるで気配を感じられない。
(逃がしたか)
仕留めることができなかった悔しさに舌打ちをした新吉の真正面に、忍び装束をした一人の男が立っていた。
(いつの間に……)
新吉の背中に、冷たいものが流れ落ちる。
「公儀筆頭御庭番、林軍太夫殿の三子、新吉殿ですね?」
長く生きてきた年輪を感じさせるが、抑揚のない、静かな声。
「人の名前を訊ねるときは、まず自分から名乗るのが筋ってもんだろ」
湧き上がる恐怖を無理やり飲み込み、新吉は吐き捨てた。
「一つだけ、忠告いたします。即刻、この事件から手をお引き下さい。さもなくば、あなたの妹が悲しむことになりますよ」
「な……!」
おみつのことを暗に提示された新吉の頭に、血が上った。
「誰だ! てめえは」
素性ばかりか、自分ら家族と京香しか知らないおみつの存在を知っている。
熱くなっている心と裏腹に、背中からまた、どっと冷たい汗が噴き出した。
十手を再度握りしめた新吉の目の前に、突然煙幕が張られる。
「待ちやがれ! ……っ」
辺り一帯にむせ返るじゃ香の香りが、新吉の全身の力を急速に奪っていく。
暗闇に落ちていく意識の中で、一瞬、悲しげな表情を浮かべたおみつの姿が浮かんだ。
◇◇◇◇◇
「……さん」 「新吉」
聞き慣れた声が、すぐ近くで自分を呼んでいる。
鼻をくすぐる、かぎ慣れた甘い香り。月明かりが、薄く開いた目に飛び込んでくる。
「しっかりおしよ! 新さん」
「姐さん。……先生」
自分を心配そうにのぞく源三と京香が、安堵したようなため息をついた。
「いったい、何があったんだ?」
「昨日の辻斬りの仲間らしい忍びとやりあってな。ちょっと……、油断しちまった」
よほど深くじゃ香を吸ったのか、のどがやけつくように痛み、声がかすれる。
「仲間?」
「一体なぜ、新さんを?」
「わからねえ。そっちは?」
「連中、今日は現れなかったんだ。昨日の今日じゃ、同じ作戦をしても駄目だな、やっぱり」
「そうか……」
二人にうなずいて起き上がろうとするが、身体がしびれて力が入らない。
「おっと」
前のめりになった新吉の身体を、源三がしっかり支えた。
「京香、すまないが持ってくれ」
かすむ目の端に、源三が京香に提灯を渡している姿が入った。
次の瞬間、新吉の身体が宙に浮く。
「ちょ、先生。俺は……男におぶられる趣味は」
「こんな時に冗談言うな。力が入らないくせに。まったく…そろって……」
「……え?」
源三が何かを言ったようだが、その意図を読み取ることは、今の新吉にはできなかった。
京香が何やら、源三に対して怪訝な顔を見せてはいるけれど、その思考すらも、急速に襲ってきた眠気にさえぎられる。
(何て、言ったんだろう……)
京香と源三のやりとりを遠くに聞きながら、新吉は思いをめぐらせる。
そして、あの忍びはなぜ、おみつのことを知っていたのだろう?
おみつが悲しむと言った意図は?
しかし答えが出ないまま、新吉は、源三の背中に揺られるまま、深い眠りに落ちていった。 |