第一章 一日目−決意−
源三が、春香の所へおみつを連れて行った半刻前のこと――。
「……どうも、ありがとうございました」
おみつの兄、新吉が花かごを出て、大きなため息をついた。
(ったく、どこに行きやがったんだ。おみつの奴)
人の気も知らないで、口を開けば『外へ出る』の繰り返し。
何をしに江戸に来たかは知らないが、早く見つけて紀州へ帰さなければ――。
「あら、新吉親分」
「どうしたの? そんなに慌てちゃって」
いつも町回りをしているときに軽い気持ちで声をかける茶屋の女性たちが寄ってくるが、今は彼
女たちの相手をしている余裕はない。
焦りを隠さず歩き回っている新吉の前に、大きな籠を背負っている男が歩いてきた。
その男の姿を見た新吉の背に、冷たいものが流れ落ちる。多分、今の自分の顔は青ざめているだろう。
「……親父」
「おみつが、江戸に出てきているようだな」
新吉にしか聞こえないような小さな声で、父、軍太夫が言う。
「……!」
「隠しても無駄だ。さっき、浅草の橋のたもとでならず者とやりあっているのを、弥助が見ている」
弥助とは、一番上の兄の名だ。
言わんこっちゃない。これだから、おみつを外に出したくはなかったのに。
「三日以内に、おみつを紀州へ帰せ。さもなくば……わかっておろうな」
非情の宣告に、新吉の心が凍りつく。
「あ、新さん」
後ろから聞き覚えのある声がする。それと同時に軍太夫が何事もなかったかのようにおじぎをし
て去っていった。
「今の方は?」
自分の前に回りこんだ声の主――京香が訊ねてくる。
「いや、別に」
「そういう表情じゃないようだけど?」
冷静に答えたつもりでも、幼い頃から一緒にいる京香に、心の中の動揺までは隠せない。
「おみつ、いたか?」
「いいえ。とりあえず、新さんの妹ってことは伏せて先生にも捜してくれるようにお願いしてきま
したけれど」
話をそらした自分に何かを言いたげな表情を浮かべてはいるが、京香は小さく首を振る。
「それより新さん。今夜、また『おとり』をやるそうですけど。やめときます?」
今度は京香が訊ねてきた。自分が何も言いたくないのを察してか、話題を変えてくれている。
「そういうわけにはいかねえよ。これはあくまでも俺個人の問題だ。お役目には関係ないさ」
新吉は、心の中で京香に感謝をしながらわざと明るく答えた。幼い頃から公私混同はご法度と叩
き込まれているから、おみつとのことは別にできる自信はある。
しかし、父の言葉は、知らず知らずのうちに新吉の心に刃となって突き刺さっていた。
それが、彼の判断を微妙に狂わせてしまうことを、新吉はまだ知るよしもなかった。
◇◇◇◇◇
月すらも出ていない暗闇に、犬の遠吠えがひびく。
日ごとに冷たくなる秋風が、新吉の体の表面を吹き抜けていく。
結局今日は、おみつを見つけられなかった。軍太夫が最後に言った言葉が、新吉の脳裏に焼きつ
いて離れない。
『三日以内に紀州に帰せ。さもなくば』
……その先は。
新吉は大きくかぶりを振った。
(そんなことはさせねぇ。絶対に)
その時、新吉のはるか前方で灯りがともった。
昨日同様、天膳が店から出てきたときのものだ。
さっき源三と打ち合わせた時、天膳が参加することをあまり快くは思っていないように、新吉は
感じた。
当然だ。
奴は、共に修行を積んだ京香ですらかなわないであろう殺気を放っていたのが、新吉のいた場所
からもわかったのだから。
今度しくじれば、ここにいる誰かが確実に殺される。
こう思うのは失礼なのは重々承知だが、天膳の存在が足手まといにならぬように祈るしかない。
天膳を乗せた駕籠の在処を示す灯りが、ゆっくりと遠ざかって行く。
新吉は深い呼吸を一度だけ行い、後を追い始めた。 |