序章 前 夜−遭遇−
亥の刻(午後十時)をつげる鐘の音が、漆黒のなかへゆっくりと溶けていった。
一月ほど前までは、この時間を過ぎても灯りの消えない料亭から千鳥足で出て行く酔客を、青や紫の着物に身を包んだ芸者が見送る、あるいは同伴する光景でいっぱいだった本所・深川界隈も、ほとんどの店がのれんをしまい、そびえ立つ建物を強い北風がなめるように吹いていく。
そんな中、唯一灯籠に灯がともっている料亭「浮雲」の玄関先に、黒の布地に大きな蝶の刺繍をあしらった振袖を細い身体にまとった芸者、京香が、本日最後の客である、大店の主人らしき人物を送りに、外へと出た。
「どうもありがとうございました。またどうぞ」
京香のあでやかな声に頬をゆるめた初老の主人が、恰幅のいい身体を駕籠の中に沈める。一人だけついてきた番頭らしき人物の合図で、駕籠が出発した。
「やれやれ、あの御仁も度胸がいいね。いつ何時、辻斬りが現れるやもしれないのに。あんたも気をつけてお帰りよ」
白髪混じりの頭を結っている女将の呆れた物言いに愛想笑いを浮かべ、地につくくらい長いすそを持ったのと逆の手で提灯を持った京香が軽く会釈をして、闇の中へと歩き出した。
料亭が並ぶ通りを抜け、小さな橋を渡るとそこは、武家屋敷街になっている。
京香のはるか前方には、先ほど見送った駕籠があるのを示す提灯の灯りが揺らめいている。
犬の鳴き声すら聞こえない静寂の中、突然、空気が動いた。
(――来た)
先ほどまでにこやかに微笑んでいた京香の大きな目が鋭く光った。
提灯を投げ捨てて、胸元の扇に見立てた短刀を取り出し、駕籠のほうへ向かって駆け出すと同時に前方の灯りが放物線を描く。
少しの沈黙の後、刀を切り結ぶ音がした。そして。
「ぐわっ!」
番頭に化けた供侍のものらしきうめき声が、辺りに響く。
「お待ち!」
たまらず叫んだ京香が、男と駕籠の間に割り込んだ。編笠をかぶった男は一瞬、虚をつかれたように立ち尽くすが、すぐに体勢を立て直す。
静かなただずまいだが、鋭い殺気。一瞬でも隙を見せれば、今度は自分が刀の露に消えてしまう。
「邪魔立てすると……、斬る!」
男は低い声で言うと、京香に向かって刀を振り下ろした。
それを短刀でなぎ払い、逆手に構えて呼吸を整える。
そこへ。
「かかったな」
声がして、駕籠から出てきた大店の主人――に化けた、元、紀伊和歌山藩江戸屋敷城代家老の清水天膳が、京香の横に並ぶ。
「お主の正体、今度こそ見極めさせてもらうぞ」
「伯父上! 出てこられては!」
京香は思わず叫んだ。
「心配するな。腕はまだ衰えてはおらぬ」
そういう問題ではない。ここで天膳に怪我をされた場合、困るのは姪の京香だ。
昔は、なみいる強豪をねじふせる腕を持ち、当代一の剣豪と名高かった天膳だが、自らの長男である清水忠直に家督を譲り、悠々自適の隠居生活を送ること約五年。
齢五十を過ぎても腰を曲げずに歩いてはいるが、見かけは立派な「おじいちゃん」なのだから。
そんな京香の心配に構わず、天膳は刀を引き抜いた。
二人の間を、男の切っ先が襲いかかる。
京香に構うことなく、男の刃が天膳のほうへ向けられた。辛うじてよけてはいるものの、ひいき目に見ても、天膳の分が悪いのは明らかだ。
大きな音とともに、刃と刃がぶつかった。
押された天膳の足元がふらつき、後ろのほうへと倒れこむ。
それを見た京香は供侍の刀を拾い、再度二人の間に割って入ると、刀を逆袈裟に振りぬいた。
身動きできずにいた男の編笠の一部が切れた。雲の間から差し込む月明かりに照らされて、男の顔が京香と天膳にさらされる。
きりりと上がった眉に、大きな目。
深いしわが刻まれた頬には、火傷のあとのような大きなあざがある。
「そなたは、もしや……」
背後で、天膳の声がしたのと同時に、呼子笛の音が聞こえて来た。
「姐さん、旦那! 大丈夫か」
その声とともに、目が細く、鼻のすっと通った美青年が、十手をかざして踊りこんでくる。
「新さん!」
「お前さんが、今世間を騒がしている悪党か。ここで会ったが最後、新吉さまの十手でお縄にしてやるから、覚悟しやがれ」
新吉が、歌舞伎役者のような口上を言ったのと同時に、京香らの前に、煙幕が張られた。
「待て! ……っ」
天膳は立ち上がろうとしたが、咳き込み、腰を押さえてうずくまる。
「伯父上! しっかりして下さい! 伯父上!」 |