Elixir ~パジェンズの医師と惚れ薬~
「惚れ薬を、手に入れてしまいました」
いやに神妙な表情で、重々しく、セリウスは告白した。
惚れ薬。
その単語の持つ破壊力に、招集されたキルリアーナとロイスは黙るしかない。
いったいなんの冗談なのかと胸ぐらをつかんで問いただしたいところだが、どうやら本気らしいので始末に負えない。
「そうか」
兄としてだろう、威厳ある声で、ロイスがとりあえず答えた。
「良かったな」
キルリアーナも一応声をかけておいた。ものすごく低いテンションではあったが。
「なんですか。信じていませんね。海向こうではあまりの威力に調合禁止になった有名な惚れ薬ですよ。買うとものすごく高いんですよ。こちらの国のひとはその価値を知らないので、ゴミ捨て場に置いてあったわけなんですが」
ゴミ捨て場。
キルリアーナは思い切り眉をひそめた。
隣のロイスを、そっと見上げてみる。
「なるほど。では、本物かどうか、使ってみる必要があるな」
なにやらもっともらしくとんでもないことをいっている。
「そんな胡散臭いもん戻しとけ。俺は寝る。じゃーな」
ひらひらと手を振って、キルリアーナは部屋から出ようと踵を返した。ここはロイスとセリウスのための部屋だ。キルリアーナはその隣。わざわざ呼ばれたから来てみれば、まさかこんなどうでも良い用件だったとは。
貴重な睡眠時間を削ってしまった。もはや後悔しかない。
「……キル」
しかし、静かな声が、キルリアーナを呼び止めた。
押さえた声音に、含まれる怒気。
「これは、あなたのために拾ってきたのです。あなたは、あらゆる病を学ぶのではなかったのですか?」
真剣だということだけは充分に伝わってくる物言いだった。キルリアーナは心底面倒臭いと思いながらも足を止める。
「それがなんだよ」
「キルと惚れ薬と、どんな関係があるんだ、セリウス」
ロイスは最初から興味津々だ。なんかもう声がうわずっている。何に使うつもりだこいつと引きつつ、キルリアーナはセリウスの手にしている小瓶を手に取った。
「惚れ薬ねえ」
「あなたなら、この意味がわかりますね。薬マスターを目指すあなたにとって、未知の薬などあってはいけないはずでしょう」
「まあ、それは……」
そうなのだが。というか薬マスター。そんなことをいった覚えはない。そして胡散臭い。
ゴミ捨て場にあったというそれは、ひどく古めかしい瓶だった。曲がりくねった、見たことのない形状だ。
「一応、海向こうの薬も押さえてるが、惚れ薬とか聞いたことねえな。ほんとかよ」
「本当ですよ! 以前私の友人の友人の友人がそれを飲んで大変なめにあったと聞きました」
「それ他人じゃん」
キルリアーナは小瓶の蓋を引き抜く。薄茶色に赤味がかった、独特な色。
「まあ、何事も経験だな」
「経験? なにをするつもりだ、キル、ちょっと待っ……」
しかしキルリアーナは、待たなかった。
少しだけ臭いを嗅いで、あとはそのまま、一気に喉に流し込む。
ごっくん。
とても良い音がした。
「──! の、飲めなんていってないでしょう! ぜんぶ飲んだんですか、まさか!」
「すぐに吐き出すんだ!」
セリウスがキルリアーナの手から小瓶を奪い取り、ロイスがふらついたキルリアーナを支える。
「キル、大丈夫か!」
「……すっげえまずい……」
キルリアーナは呻きながら、顔を上げる。
当然のように、目が合った。
ロイスの心配そうな眼差しに、キルリアーナが映っている。
見つめ合うこと、三呼吸分。
キルリアーナはふっと目を逸らし、両手を広げると、控えめにロイスに抱きついた。
ぐりぐりぐり。ロイスの胸板に、顔を何度も押しつける。
「──!」
「──!」
セリウスは空瓶を落とした。
ロイスはめいっぱい目を見開き、顎が落ちんばかりに口を開け、全面降伏のように両手を挙げた状態で、完全に動きを止めた。
*
「まさか、こんなことになるとは……もうしわけありません、兄さん」
だからせめて、あなたがたを二人きりにしようと思います。何やらもっともらしくそんなことをいって、目頭を押さえつつ、セリウスは部屋から出て行った。
なにが「せめて」なのかわからない。
ロイスはしがみついたままのキルリアーナを引きはがすことも、かといって抱きしめることもできずに、両手を挙げたままの状態で停止していた。
そろそろ腕が痺れてきていた。
ついでに足も。
キルリアーナは、一言も言葉を発していない。それでも時折、腕に力を込めたり、顔をぐりぐり押しつけたりしてくるので、このまま寝ているというわけではないらしい。
「……この薬の効力が、いつごろ切れるか、わかるのか?」
沈黙を破ったのはロイスだった。
いまキルリアーナがどういう状態にいるのか、正確なところはわからないが、平常時でないことは間違いない。果たして答えが返ってくるのかどうかと疑問に思いつつも、とりあえず聞いてみる。
「うるさい」
ちょっと予想外の返事だった。
ロイスは困惑する。充分困惑していたがそれ以上に。遅れて怒りが湧いてきた。
「うるさいとはなんだ。しがみつかれているほうの身にもなってもらいたいな」
「黙れ。気が散る」
「……キル。いいかげん怒るぞ。僕は紳士だが紳士にだって紳士であろうとする理由が必要だ。わかるか?」
自分でいってから自分でよくわからなくなったが、ロイスだって混乱していた。返事がないので、肩をつかんで無理矢理キルリアーナを引きはがす。
「聞いているのか! いつまでもこうしていられるものでもない、対策を話合っ……」
ロイスは絶句した。
キルリアーナは涙ぐんでいた。顔全体が赤い。ロイスを見て、さらに耳まで赤くなる。急いで腕で顔を隠し、無駄だと悟ったのだろう、ベッドの上の枕をものすごい速さでひっつかむと、バリケードのように自身の顔の前に押し出す。
「見るな!」
「……そんなに効いているのか?」
「予想以上だ、っくそ! いまどうにかする! いいか、寄るな、見るな、しゃべるな動くな!」
ロイスは目の前の枕を見つめた。震えている。枕を持つ手が震えているのだ。あまり取り乱すことのないキルリアーナがここまでになるということは、あの薬にはよほどの威力があるのだろう。
ロイスは混乱を極める脳内で、どうすべきかを必死に整理しようとする。
一緒の部屋にいない方が良いのではとか。
いっそ抱きしめてしまおうかとか。
引きはがすんじゃなかったとか。
あの枕が邪魔だなとか。
照れている顔をもっと見たいとか。
枕がなくて、距離もなかったら、どうなるのだろうとか。
触れたいとか。
見たいとか。
「わかった、出よう」
そして出した結論は、常日頃から自己申告しているとおり、極めて紳士的なものだった。
「あの薬が本物だったというのなら、侮ってはいけないのだろう。僕はこの部屋を出て、ドアの前にいる。落ち着いたら声をかけてくれ」
心よりも声が、勝手に出たという感覚だった。一度いってしまえば、それ以外の選択肢などなかったかのように思えた。これが正しいはずだ。これしかない。
それ以外のことを、考えてはいけない。
「待て」
しかし、制止される。
キルリアーナは枕を下げ、ぬくもりの代わりにするかのように抱きしめていた。ロイスを見上げる。熱で潤んでいた瞳から、涙がこぼれる。
「行くな。ここにいろ。ひとりに……するな、ばか」
ロイスの頭の中で、何かが切れた。
部屋を出るつもりだったのに、正反対の方向へ足が動いていた。
枕をはぎ取って、キルリアーナを抱きしめる。
力の限り。理由も理屈もわからなかった。泣かせてはいけないという思いだけ、その一つだけがひどく明確で、あとはわからなかった。
力を込める。
何もかもが邪魔だ。身体そのものがいらない。
もうこのまま、一つになってしまえたらいいのにと思う。
「キル」
名を呼ぶ。キルリアーナは答えない。
「キルリアーナ」
もう一度。それでも彼女は、答えない。
その代わり、そっと、ロイスの身体を押し離した。
見上げて、ゆっくりまばたきをする。
「ロイス」
唇が、ロイスの名を紡ぐ。
長い睫毛の下、いまはもう、涙が乾こうとしている。
「治った」
それは、彼女が惚れ薬に打ち勝った瞬間だった。
結局、セリウスは翌朝まで帰ってこなかった。
帰ってきたときには異国の赤い飯を持っていた。自分で炊いたものらしい。
それでどうなりましたかと、全力でわくわくしながら聞いたセリウスは、それから数日間、兄の恨み言をねちねちと聞かされることになる。
なんでもかんでも口に入れる彼女なので、セリウスが持って来たのが「伝説の育毛剤」とかだったらまた違う趣になったかと思います。
お付き合いいただきありがとうございました!
(本編、セリウス合流後離散以前という位置づけですが、要するにどこのことだとか深くは考えない方向でお願いします…!)