「用事があるからきてくれないか」
突然の声に僕は目を覚ました。手探りで時計を探し時間を確認する。真夜中の二時だった。
身体を起こし伸びをする。所々から間接の鳴る音がした。
「貸してほしいものがあるんだ」
再び声がした。一瞬誰の声なのか判断できなかったが兄の声だと理解した。
指の腹で目を擦り欠伸をする。しばらく黙っていると思考回路が正常に機能を始めた。
突然、晩飯の情景が脳裏に浮かび上がる。そこには兄の姿がなかった。僕が母に訊ねると、彼は外出しているようなことをいっていた。
彼は今頃帰ってきたようだ。特におかしいところはない。しかし僕は奇妙な思いを抱いていた。電気も点けず闇に身を置いているのも原因のうちの一つだが、それとは別の言葉では表現しづらいものが大半を占めているのは明らかだった。
僕は何か言葉を発しようとしたが、口が溶接されたかのようにびくともしなかった。
「貸して欲しいものがあるんだ」
彼は先ほどと同じ台詞をはいた。しかも発音の強弱なども同じで、テープで録音したのを繰り返し再生しているような不自然さを感じる。
しばらく沈黙の時間が続いた。僕の心臓が時計の秒針とシンクロしているかのように鼓動している。
「ドアを開けてくれないか?」
兄のこの言葉に僕は絶句する。あまりにも不自然な言動に背中の毛が逆立ち、寒気が身体全体に広がった。
身体が硬直し立ち上がることができない。電気を点けることも言葉を発することもできず呼吸と心拍数だけが無駄に速度を速めている。
ドアを開けたら取り返しのつかない状況に陥るような、錯覚とも予感ともいえるものを感じていた。
僕は喉元に突っかかっている言葉を絞りだそうと精一杯の力をこめる。息づかいが荒くなりつつも呼吸の隙間から言葉がもれた。
「入っていいよ」
心臓が弾けると思った。ドアの向こうにいるのは血の繋がった兄のはずなのに恐怖心が渦巻いて、その中に飲み込まれてしまいそうだった。
しかし、ドアはいっこうに開く気配はない。僕は無意識のうちに呼吸を止めていたらしく大きく息をはいた。安堵感が沸き上がる。
しかしそのとき……
ドアが勢いよく叩かれた、ような気がした。なぜか現実味がなく確信がもてない。本当に兄がそこにいるのかさえ判然としなくなっていた。
「早くしないと……」
兄の声は掠れていた。しかし僕は言葉の意味を考えていた。いつの間にか考えるだけの余裕があったことに、驚く。
答えを考えているうちに、いつの間にか僕は眠りについていた。
朝起きると食卓につきご飯を食べた。しばらくなにも考えずに箸を動かしていたが、ふと兄がいないことに気づき昨夜の出来事は夢だったのかと思った。母に深夜に不振な音がしなかったか訊ねてみたが首を傾げているだけだった。
そのとき突然、けたたましく電話が鳴り響く。
母は面倒くさそうに立ち上がると受話器をとった。
僕は再び箸を動かす。
何回か朝食を口に運んでから、母の会話がないことに気づく。顔を上げ視線を向けると、母は顔面蒼白になって突っ立っていた。口は半開きで受話器を持つ手は小刻みに震えている。
僕の方に顔を向け、母は呟いた。その言葉を聞いたとき僕は目眩がして、世界が酷く歪んだように見えた。
兄が殺された……
手足をバラバラに切断された状態でゴミ捨て場から見つかったらしい。手足はまだ見つからないようで現在捜索中だった。
兄の言葉がよみがえる。
「貸してほしいものがあるんだ」
貸してほしいものって…… |