灰色の群像
流血描写があります。ご注意ください。
厳かな音色は礼拝堂の端々まで響き渡り、やがてかすかな余韻を残し、ゆっくりと消えていった。
思わず膝をつきたくなるほど神々しい音色だったのだが……夜更けである。
周辺に住む人々のことが気になって、充分に味わえなかったのがとてつもなく残念だった。
だが、シャロンの危惧とは裏腹に、辺りは静まりかえり、恐れていた近隣の騒ぎはなく、パイプオルガンの音に驚いたか別の理由からか、少し前までは煩いほどだった虫の音すらもぱたりと途絶えてしまった。
隣のアルの身じろぎや、自分の呼吸さえも大きく響きそうな静寂が、耳に痛い。
乙女の像も剣を掲げてのちは沈黙し、そのままなので、
「外を見てくる」
耐え切れずシャロンはつかつかと礼拝堂入り口に向かい、ドアに手をかけると、
「駄目だ」
アルフレッドがその手を押さえ、強い声で止める。
「何が起こるかわからない。せめて夜明けを待った方がいい」
「……そうか。そうだな」
ふぅ、と息を吐いてシャロンはほつれた髪をかき上げ、一度ほどいて縛り直した。
「まあ、夜も遅いし、そこの長椅子で仮眠でも取るか。確か〈結界の天幕〉とかいう道具があったと思うけど……一応それも敷いておこう」
しゃべり続けていないと妙に不安になってくる。まるで昼の喧騒が嘘のようなこの状況は……。この町、この世界にたった二人だけでいるような、そんな錯覚さえ感じられて……。
思わず、大きな布を広げようと四苦八苦しているアルの腕を掴んだ。その暖かさに、ほっとして肩の力を抜く。
「シャロン……痛い」
「あ、悪い。ちょっと」
慌てて手を放し、どうかした?と尋ねてくるアルに、なんでもない、と笑ってごまかしておいた。
もの問いたげな視線は敢えて気づかないふりをしながら、協力して布を敷くと、ちょうど長椅子と床が白く埋まり、
「どちらかが床でどちらかが椅子だな」
どちらもそう大差なく硬そうだけれども、と言いながらアルを振り向くと、
「一応交代で見張りに立とう。先に寝てていいよ」
あっさりとそう答えが返ってきた。心なしか、呆れているような雰囲気でもある。
まあいいや、と、携帯食料を分けて食べ、それからアルに頼んだぞ、と声をかけて長椅子に寝そべってみたものの……落ちそうだったので、結局床でくるまることにした。
少し寝て一度交代して……普通に朝が来た。眩しい日の光が礼拝堂の窓から長く差し込み、長椅子を照らし出していく。
残念ながら朝が来ても音のしない状況は変わらず、本来聴こえるはずの小鳥の囀りすら耳に届かない。
「じゃあ……開けるぞ」
片付け、朝食も取ってから扉に手をかけ、開くと一気に眩しい光があふれてきて……そこにあったのは変わらない建物と、静寂と……そして、いくつかの灰色の石像。
急ぎ足でどこかへ向かう労働者風の男や、まるで酔っ払っているかのようなみすぼらしい男の石像が、精巧緻密に作られ、そこに佇んでいる。
驚き固まっているシャロン、警戒するアルフレッドの目の前で、静止していた石像は、ふいに何か取り憑かれたように動きだし、いずこかへと歩き始めた。同時に、ガチャリとドアの開く音、何かを叩き壊す音があちこちで聞こえ、通りは次々に寄り来た灰色の動く石像であふれ出した。
多く者が錆びた斧や鍬や鋤、もしくは鉄の火かき棒、角材など、手近な武器となる道具を手に、音にならぬ歓声を上げながら建物を破壊し始める。ぞろぞろと動くその群れの顔ぶれには、ちらほらと、市で見かけた者らしき石像もあったが、どれも一様に辺りに破壊を撒き散らし、そのうちの何人かがこちらを向いて、指差しながら何事かを叫ぶと、すべての者がいっせいにこちらを見、怒りに顔を歪ませながら走り寄ってくる。
「アル!逃げるぞ」
アルフレッドの手を引き、シャロンは咄嗟に反対側へと踵を返した。
なんだ、何が起こっている!?
パニックになりそうな自分自身に、落ちつけ落ちつけと言い聞かせながら、通りから外れた家へと飛び込み……そこに突然の乱入者におろおろと動く主婦らしい石像を認めて裏口から出、その先のボロ屋へと一時非難した。
「なんなんだ、いったい……」
扉を閉じ、そこに背を預けて息を吐いた。黙ってついてきていたアルは冷静に、
「きっと少女に剣を持たせたことが何かのきっかけになったんだろうね。灰色の群れ……暴動を起こす人々は、怒りに燃えていると言えなくもない……」
そういいながらも何かがひっかかっているかのように首を傾げていたが、
「じゃあ、あの暴動を起こしているのをどうにかして、市民を守れ、ってとこか。鉄槌とは穏やかじゃないな……」
精巧な石の人形たちは、昨日までは普通の人として動いていた。それは間違いない。
前に砂と岩の町ストラウムで呪いにより石にされた人たちが思い起こされ、シャロンは憂鬱な気分で首を振った。
「やるしかないのか……」
「どうだろう……。暴動の原因……この地を統治する王への不満……」
アルは何か考え込んでいたが、すぐに顔を上げた。
「ひとまず、ここから出よう。無数の足音が近づいてきてる」
大通りはごった返していた。埋め尽くさんばかりの人の数。あるいは暴力の限りを尽くし、あるいは蹲り頭を抱えて声無く泣き叫んでいる。
ふいに誰かが顔を上げ、こちらを指差すと、やはり先ほどと同じように人の群れが一気にこちらへと押し寄せてきた。
「クソったれ」
舌打ちしつつ剣に風を籠め、足元を薙ぎ払う。前にいた何人かが倒れ、それに躓いて幾人も積み重なっていく。
少し胸のすく思いがして、アルを見れば、その隙にと人だかりの合間を抜け、一人の男目がけてちょうど剣を振り下ろしているところだった。
だが。ドン、とその男を庇い、若い女性の石像がその刃を受けた。あっけなく剣はその肩に食い込み、ピシリ、と罅が入る。彼女が砕け散るのと同時、白い閃光と強力な爆音が、シャロンの視界と鼓膜を揺るがせ、支配した。
ドシャ、と爆風で壁に叩きつけられ、意識が飛ぶ。
「あ……」
強烈な痛みに朦朧としながらも、だらだら垂れてくるうっとうしい液体を拭ってなんとか瞼を開ければ、バラバラに石の散らばるその惨状が飛び込んできた。
「アルはッ!痛ぅッ」
右の肘から下が、まったく動かない。血を急速に失った寒さに震えながらも、かろうじて動く左手でなんとか背負いカバンを開き、その中からエドウィン作・霊薬を取り出し、噎せつつも一気に呷った。飲んだ傍から、傷がすぅっ、と癒えていく。こぼした薬が服にかかったが、どんな仕組みか敗れた服まで元どおりになった。
「…………」
薬の効能に胡散臭いものを感じながらも即座に立ち上がり、人の破片で足を切らないよう慎重に、だが急いで倒れ伏すアルの元へ向かう。
「大丈夫か!?」
「………平気」
助け起こすと、無傷の彼は疲れの滲む表情で首を振った。腕輪の透明な石が、一つ消えている。
「いったいどういうことなんだ……」
シャロンがもはや何度目かわからない言葉を口に乗せると、アルフレッドが、
「ああ、ようやくあの文がわかった。怒りに燃える人々に鉄槌を、というのは、あの広場で熱を入れて演説をしていた人々、すなわち、扇動者を倒せ、という意味だったんだ」
その瞳に確信を持って頷いた。