98.その頃他国では
各国の密偵たちが持ち帰った情報は、大陸に衝撃をもたらした。
『イニティア王国軍敗れる』
飛ぶ鳥を落とす勢いであったイニティア王国の進軍。
ドライアドの陥落は誰の目にも明らかであり、事実、イニティア王国軍は王都ドリスベンすらも手中に収め、あとは北へ逃げた女王を捕らえるだけという状況であったはず。
しかし、女王が逃げた辺境の地――北のわずか一領が、追撃してきたイニティア王国軍を破り、その首領レアニスを生け捕ったというのだ。
「どういうことだ、何が起きた!」
この言葉は誰か特定の者が発したものではない。
いうなれば、“皆”。
イニティア王国軍敗北の知らせを聞いた各国の有力者たち――その誰もが口にした言葉であった。
とりわけ仰天して見せたのが、イゴール帝国西部に軍を集め、攻め時を窺っていた東方諸国連合軍の各将軍たち。
中でも、自身、東方諸国連合軍の総大将として出陣し、本営に滞在していた現ラシア教教皇――エヴァンス・ホルト・エン・ブリュームの驚きようは並々ならぬものがあった。
なにせレアニスはエヴァンスの弟であり、これより始まるはずであった東西の一大決戦は、互いにどちらが教皇に相応しいかを決めるためのもの。
その決着がつく前に、あろうことか、ただの一領が有する戦力に負けたのだから、その驚きも無理もないことといえよう。
レアニス敗北の知らせを聞いたエヴァンスは、弟とは似ても似つかぬくすんだ銀髪を振り乱し、体についた無駄な肉を揺らして立ち上がったものの、しばし声も発することができなかったという。
「何かの謀略か」
やがてエヴァンスは樽のような尻を椅子に下ろし、ぽつりと呟いた。
彼は自身を弟よりも優秀であると信じるからこそ、弟の優秀さを認め、勝敗のありかを疑ったのだ。
だが、この疑問に対する答えはまだない。
勝敗が決したのは戦い始めてたった一日足らずのこと。
密偵は現場にはおらず、敗残の軍を目撃したのみ。
その詳細を知ることはできないのだ。
密偵からの答えは「目下、調査中です」以外にはなく、エヴァンスは続報を待ち、連合内の各国軍には「決して軍を動かさないように」と厳命しておいた。
また、この間にイニティア王国敗北の知らせは市中にまで広まっていく。
「まさか、あの棺桶に片足を突っ込んでいるような年老いた国にイニティアの軍が敗れるとはな」
「いやいや、なんでも賊将レアニス率いる軍を破ったのは辺境の一領主であって、ドライアド王国自体はボロボロに打ち負かされたらしいぞ」
「なんともはや。辺境の一領主に敗れたレアニスの無能を笑うべきか、そんなレアニスに敗れたドライアドの脆弱さを憐れむべきか、それともレアニスを打ち破った辺境の一領主を褒め称えるべきか。非常に判断が難しい話だな」
耳から耳へ、口から口へ。
人の噂というものに身分の隔たりなど存在はしない。
情報通を自称する知ったかぶりが人々の注目を集めるために「イニティア王国は一枚の岩にあらず。内変こそが敗北の理由であろう」と語れば、情報の売り買いを生業にする者が一儲けしようと「さにあらず。あくまでも質の差。すなわち兵の士気や練度の差だ」と語った。
語りか騙りか定かでない情報によって、人々は混乱し、ある事ないことを口々に風潮し始める。
まさに噂というものこそ、いつの時代も変わらぬ人々の娯楽であった。
そうこうしている間にも、エヴァンスのもとには件の地――フジワラ領――からエド国樹立の書簡が届いた。
それと同時に、密偵が新たな情報を持ってくる。
内容は、フジワラ領(現エド国)がイニティア王国と同様に大砲をもって、レアニス率いる精兵部隊を打ち破ったというもの。
また、囚われたレアニスの身代金を集めるために財務官僚たちが奔走しているということ。
ついでとばかりに、エド国の軍事を担っているのが獣人であることなどが、報告に上がった。
「そうか……レアニスは、あの愚弟は敗れたか。くくく……はーっははははははは!!!!」
報告を受けたエヴァンスは頬の肉をブルブルと震わしながら、大声で笑った。
ここに証明されたのだ。
レアニスは相対する敵であるどころか、歯牙にもかけない相手であったと。
己こそが教皇に相応しかったのだと。
「イニティア王国など取るに足らぬ。滅ぼすぞ。誰にたてついたのか、思い知らせてやろうぞ」
エヴァンスは、今こそ進軍せよと号令を出した。
東方諸国連合軍がこれに従わぬ道理はない。
総大将が囚われたとなれば、敵はもはや軍ですらない敗残の群れ。
その士気は著しく低下しているだろうし、逆に自軍の士気は高まっている。
さらに、連合国の将軍たちはイニティア王国軍に激しい侮りを持っていた。
彼らは口々に言う。
「今日までのイニティア王国軍の活躍は、小国群とドライアド王国があまりに情けなかったからであろう」
誰であっても、そう考えることは無理からぬことであったのだ。
将軍たちは、機は熟したとでも言わんばかりに意気盛んとなり、軍を動かした。
これまでの見せかけだけのものとは違う。
それは明日にでも侵攻を開始するための進軍であった。
ただし、あえて後方支援に回った国もいる。
サンドラ王国とシューグリング公国である。
この二国は、自軍の兵糧を供出してまで、前線に出ることを拒んだ。
サンドラ王国の将軍ミレーユは、先のロブタス王国との戦により多大な被害を受け、いまだ軍の復旧が完全ではないことを理由とし、シューグリング公国の将軍は、自軍に戦いの経験がほとんどないことを理由としている。
誰がどう見ても、建前であることは明らかだった。
では本音はなんであるか。
サンドラ王国はほんの数年前、シューグリング公国に西部地域を奪われたという経緯がある。
この機に乗じて、サンドラ王国は西部地域を取り返したいのではないか。
それをシューリング公国が察知して、いつでも本国に戻れるようにしているのではないか。
要は互いに牽制しあっているのだろうという話になった。
大陸の反逆者を討とうとする名誉ある連合軍にあって、両国の考えは本来ならば許されることではない。
しかしイニティア王国の軍がこけおどしであるとされている今、連合軍にとってドライアドの地は黄金のパイに等しい。
パイを分配する相手は少ない方がいいのだ。
こうして東方諸国連合軍のうち、エルドラド教国、イゴール帝国、カスティール王国、ロブタス王国の四国が前線部隊を受け持ち、サンドラ王国とシューグリング公国は後方支援に回ることになる。
イニティア王国軍と東方諸国連合軍。
互いが矛を交えるまで、もはや幾ばくもない。
大陸の命運を決める大戦、その幕が切って落とされようとしていた。
◆
場面は変わり、大陸の南――ヨウジュ帝国。
つい先ごろ、イニティア王国が起こした侵攻に合わせ、幾つかの領にて反乱が起こった地である。
「フジワラか。覇を争うのはレアニスばかりだと思っていたが、思わぬところに伏兵がいたか」
そう呟くのはジュリアーノ・ガヴィーノ・ヴァッサーリ。
白い肌と、ヨウジュの地によく見られる赤が混じったブラウンの髪。きりりとした眉と整った鼻は、端正な顔立ちの証である。
しかし、ある一握りの者はジュリアーノのことをこう呼んだ。
――永井、と。
永井は“玉座”にて、イニティア王国軍の敗北の知らせを聞いていた。
何ゆえ、玉座か。
知れたこと。
皇帝が住んでいた城も町も、今や全て永井のもの。
翻した反旗は、既に皇帝の城に掲げられたのである。
「報告! 皇帝とその家族を捕らえました!」
玉座の間に新たな伝令がやって来た。
帝都より逃亡したヨウジュ帝国のかつての皇帝。
皇帝に味方する者はもはや誰もいない。
まず永井は、死しても皇帝に忠誠を誓うであろう領主から滅ぼし、その他は大局を判断して永井に降った。
「連れて来い」と命令した永井の前に、皇帝とその親族はまるで罪人のように引っ立てられてくる。
恰好ばかりは皇族のそれであったが、それらの表情に覇気はない。
皆、生ける屍ともいうべきやつれ方であった。
「ヴァッサーリ……」
「以前とは立場が逆であるな、皇帝」
口惜しそうに永井の名を呼ぶ皇帝と、それを玉座より見下す永井。
かつて皇帝は永井の領――ヴァッサーリ領――の発展をわが物にしようと数々の常識外れの要求を吹っかけてきた経緯がある。
屈辱にも永井は跪いて、それらを全て受け入れた。
しかし、本当に知られてはならない、とっておきの鋭い爪は隠し続けていたのだ。
「皇帝よ、苛烈な君主よ。
お前はよく財を築き、軍を増強することに余念がなかった。そしてそれは、今日の大陸の情勢を見るに、確かに正しい。
だがな、お前は他を顧みなさすぎる。国と己が血筋を強くすることしか見えていない。
下にあっては民を締め付け、上にあっては遠縁を排し、己の血筋ばかりを優遇した。ゆえに乱が起こった。
聞こえるか、この声を。お前にはもう敵しかいないのだ」
城の外から聞こえてくるのは、『ヴァッサーリ様万歳! 新皇帝万歳!』という嵐のような大歓声。
城下の兵や民、全員が永井の勝利を喜び、それは止むことがなく続いていた。
「……貴様の言う通りなのだろうな。
わしは殺されても構わん。他の者も好きにしろ。しかし一番小さな娘だけは助けてくれ。
まだ四つ、皇族としての責任すらも理解できない年頃なのだ。どうか頼む……」
皇帝は、後ろ手に縛られたまま、頭を床につけて懇願した。
だが、これに驚いたのは他の親族たちだ。
自身も助けてくれと命乞いを始める。
挙句、皇帝を悪く言い、永井を讃える言葉まで吐き始めた。
「よかろう。末娘は助ける。成人するまでは不自由のないように、こちらで面倒を見よう」
「礼を言う」
慈悲は、人心を集めるのに最も優れた行為だ。
特に日本人に対して、その効果は覿面であるといっていい。
この場にも永井の副官として日本人がおり、永井はその扱いをよく心得ていた。
末娘のみ別室へと案内され、皇帝以下その他の者たちは斬首場へと連行される。
永井は彼らの処刑を見ることなく、自室へと去っていった。
さて、ひとかけらの慈悲を見せた永井。
だがそれは表向きだけのこと。
永井が新たに自身の部屋となった帝室に戻ると、ある者を呼んだ。
それは永井の腹心にして、後ろ暗い陰働きをする隠密の長。
その者に永井はある一つの命令を下す。
「始末しろ」
「はっ」
いったい誰を始末するのか。
それは考えるまでもないことである。
日本人からすれば血も涙もない行為かもしれない。
しかし永井は支配者として何をすべきかわきまえている。
どんな状況であれ、情を利用することはあっても、情にほだされることない。
皇帝の一族の死などどうでもよく、既にその思考も、遥か北方へと移っていた。
「レアニスを破るとはな。恐るべき能力を持つか、それとも恐るべき知恵を持つか。フジワラ……今日まで放っておいたが、どうやらそれは間違いであったようだ」
豪奢なソファーに腰を沈める永井。
フジワラ領のことは知っていた。
しかし、レアニス同様に少々調査しただけで放って置いた。
見るべきものがあるとすれば、胡椒などの香辛料とジャガイモだけであったからだ。
だがそれは誤り。
ともすれば、今のレアニスの立場が己であったかもしれないという思いが、永井の胸に浮かんでいた。
永井は隠密の長が帰ってくるなり、新たな命を下す。
「北の地へ、あらゆる人間を送り込め。密偵だけではないぞ。こちらの息がかかっているなら、どんな者でもいい。職業も人種も種族すら問わない。
たとえ些細なことであっても構わない。大小など気にせず、あらゆる角度から情報を集めよ」
「はっ、かしこまりました」
まずは敵を知る。
現代日本では誰もが知っている当たり前の兵法だ。
レアニスを破るほどの相手なればこそ、慎重を喫しなければならない。
あらゆる情報を集めて、フジワラの地を丸裸にし、そののち対策を講じるのだ。
「なんにせよ、まずは敗者の始末か」
イニティア王国の現状を考えれば、東方諸国連合軍が動くのは想像に難くない。
永井にしてみても、今こそイニティア王国を――ひいてはレアニスを滅ぼす絶好の機会であった。