62.ドライアド王国 1
直径1キロの城郭に加え、その外にまで街が並ぶ、ドライアド王国は王都ドリスベン。
人口はおよそ七万人、長い歴史と、それに併せて培ってきた文化学術があり、その華やかさから花の都などと呼ばれる、言わずと知れた大陸有数の大都市である。
しかし実際のところ、その華やかさの裏には暗い影がある。
たとえば人口七万人という数字。これは少し間違っているといっていいだろう。
“およそ”七万人のうち、戸籍管理がされているのはせいぜい五万人。
では残りの二万人はなんなのかというと、税を納めていない流民同然の者たちである。
彼らは城郭外の一画にスラムを形成し、人夫として低賃金で働いて、ドリスベンの経済を支えていた。
他にも、貴族たちの豪華絢爛な生活の裏には多額の借金があり、文化や学術においても、今では過去の歴史を誇るだけ。
もはや花の都なんていう呼び名は、皮肉として鼻で笑うための、からかい言葉と成り果てていたのであった。
さて、そんな王都の中央には若き女王が住まうリーシュンデット城がある。
その一室――とある大臣の執務室では、うんうんと唸る者があった。
「ううん、今月もきついのう」
己が机にて各部署からの報告書類とにらめっこをしているのは、白髪に腹までかかる白鬚を蓄えた老年の男性。
名をヨーラン・イングヴァル・イーデンスタムといい、各大臣を統括するドライアド王国の宰相である。
「どうしたものか……」
イーデンスタムは苦しそうな声を漏らした。
王家の財政は火の車。
節制に努めるように触れを出してはいるものの、現女王の母――つまり前王の后がいる後宮などは、そんなもの知るかと言わんばかりに贅沢をする。
もはや借金に次ぐ借金で首が回らない状態であり、今月は何を切り詰めようかとイーデンスタムは頭を悩ませていたのである。
すると扉が叩かれて、小役人が顔を出した。
「イーデンスタム様、面会を望む者が来ております」
「要件はなんじゃ」
「はい、領地を買いに来たと」
「なに!?」
イーデンスタムは席から立ち上がらんばかりに驚いた。しかしそれは、うれしい驚きである。
なにせ、少なくない収入源であった領地販売の売れ行きは、このところ芳しくない。
去年から今年に至ってはゼロ。誰一人として領地を買う者はいなかったのだから。
原因はわかっている。
金を持つ者たちは皆、最近の大陸の情勢に懸念を抱いているのだ。
各地で頻繁に起きている戦乱。それは大きな戦いの予兆ではないかと、誰もが憂惧している。
もし、そんな大きな戦いが起こり、ドライアド王国が巻き込まれれば、領地を買い領主となった者は、その務めとして莫大な戦費を払わなければならない。
そうでなくとも、領地の購入費や年々の税は馬鹿にならない額である。
こんな状況で、貴族位目当てに領地を買う者など、それこそ馬鹿でしかない。
イーデンスタムも、このまま座していても領地は売れぬだろうと、その売値を下げようと考えていたところであった。
「して、何者じゃそやつは」
「はっ、ポーロ商会の会長エルザ・ポーロだと名乗っております」
「なんじゃと!?」
今度こそイーデンスタムは立ち上がった。
ポーロ商会といえば、最近になって名の売れだした新興の商会である。
しかし新興と侮るなかれ、ポーロ商会が取り扱う商品は――胡椒。
幻の香辛料であり、ドライアド王国においても王族をはじめ、わずかしか口にした者はいないほどの品である。
原因はあまりの稀少さゆえの価格高騰。
最近になって、ようやくそれなりの量が市場に回り始めたところであった。
「ポーロ商会が我が領地に来ただと……」
イーデンスタムはプルプルと震えだした。それは戦慄といってよかったかもしれない。
ポーロ商会の本拠ははるか東南のサンドラ王国にある。
まさか本拠を移そうということはないだろう。
胡椒の販売においては、サンドラ王国の影が見え隠れした。
ポーロ商会とサンドラ王国は繋がっているはずだ。
「……西の拠点づくりか」
胡椒が市場に出回り始めたとはいえ、やはりサンドラ王国がある東側に集中している。
西側で売る確かな足場がないのだ。
そして、ここにきてドライアド王国にやってきた。
西側の拠点づくりと考えるのが自然であろう。
「こうしてはおれん! ええい、すぐに客間に通せ! わしもすぐに行く!」
「は、はい!」
イーデンスタムは小役人に下知すると、己は身なりを整えるため、すぐさま自室に向かう。
逃してはならない。ポーロ商会はまさに乾地に雨とでもいうべき存在。
金の卵を産む鶏がやってきたのだ。内に引き込み、胡椒を栽培させてその成果を奪えば、ドライアド王国は万年的財政難からも救われる。
「大臣となり苦節10余年、ようやく我が国にも運が回ってきたようじゃわい。わはははは!」
イーデンスタムは狂ったように笑いながら、廊下を早足で歩く。
行きかう者たちは、働きすぎてとうとうボケたのかと思い、イーデンスタムの日ごろの勤労ぶりにほろりと涙を流した。
自室にて装いを正したイーデンスタムは、客間の戸を開けた。
すると、そこにいたのは一組の男女。
絵画を眺めていたのだろう、二人は壁に飾られていた絵画の前に立ち並んでいた。
「これは待たせてしまって、すまぬな。この国で宰相をしておるヨーラン・イングヴァル・イーデンスタムだ」
「まあ、あの御高名な。お噂はかねがね聞いておりますわ、ムッシュ」
にこりと笑った真っ赤なドレスがよく似合う、赤毛の女。
一言でいえば美人。扇情的であり、イーデンスタムは老年なれど、年甲斐もなく男の部分を刺激されるものがあった。
そんな女性が、どんと隣へ肘を突く。
それを受けたのは、あまり似合っていない紳士服を着た、黒髪の凡庸そうな若い男。
「ノブヒデ・フジワラと申します」
どこかたどたどしい一礼をする男――ノブヒデ・フジワラ。
聞きなれぬ響きを持った名である。
偽名か、とも思ったが、偽名を名乗るならばわざわざ偽名と疑われる名を名乗らないだろう、とイーデンスタムは考えを改めた。
「ポーロ商会の長、エルザ・ポーロです。この度は、このフジワラの付き添いで参りました。どうかお見知りおきを」
フジワラとは違い、洗練された仕草で淑女の礼をとるエルザ・ポーロ。
もはやどちらが主人であるかは明らかだった。
「どうぞ掛けなされ」
クロスのかかった丸いテーブルを中央にして、エルザ、フジワラとイーデンスタムは向き合うような形で椅子に腰かける。
そして小細工はいらないとばかりに、イーデンスタムはすぐさま本題に入った。
「それで、我が国の領地を買いたいとの話であったが」
「その通りですわ」
イーデンスタムの質問に、エルザがにこやかな笑みを携えて答える。
「ふむ、身分を証明できるものを持っているかね?」
「ええ、こちらに」
エルザの手元の鞄より出された証明書。
既にここに来るまでに確認されているであろうが、なんでも自分の目で見なければ気が済まないのがイーデンスタムという男である。
「ふむ……確かに。これは返そう。では早速、こちらを」
確認の済んだ証明書を返し、次いでイーデンスタムが机の上に差し出した羊皮紙。
それは竜の角とあだ名される、ドライアド王国の北部の地図。
広げてみれば各所に地名が書かれ、その下には値段が書かれている。
「あら、少し高いんじゃありませんか? わたくしが聞いていたのとは値段が違いますわ」
「それが今月から値上がりしてな」
「値を上げる? ご冗談を。領地販売の商況は知っております。売れない時は値を下げるのが商売の鉄則でしてよ?」
「しかし、今こうしてそなたたちは買いに来ておるではないか」
「ええ、そうですわ。ですがわたくしたちは、以前より提示されていた値段で領地を買いに来たのであって、このような法外な値で買いに来たんじゃありませんの。――フジワラ様、行きましょう」
席を立つエルザとフジワラ。
まずいとイーデンスタムは思った。
金を持っているだろうからと、ふんだくろうとしたのが逆効果であったのだ。
「ま、待て!
わかった、わかったから。これはちょっとした手違いじゃ。軽い冗談じゃよ。若者をからかう老人のお茶目なジョークじゃ」
慌てて引き留めるイーデンスタム。
それを聞いて、エルザとフジワラが顔を見合わせると、今一度席に座った。
「まあ、いやですわ、イーデンスタム様ったら。あまりにお上手な冗談でしたので、わたくしもつい信じてしまいました」
ほほほ、と上品に笑うエルザ。
その表情、口から出る言葉の節々には余裕が見てとれる。
対するイーデンスタムは苦々しい思いだ。
足元を見たつもりが、逆に足元を見られた。
エルザは、こちらの事情をよく知っている。
見た目に騙されてはいけない。若くともさすがは一商会の長。
イーデンスタムは歯軋りしそうになるのを堪えながら、背後の小役人に正規の値が書かれた地図を持ってくるように命令した。
「時に最近よく耳にするのだが、ポーロ商会は胡椒の販売を行っているとか」
「ええ、おっしゃる通りです。本当はもう少しひっそりとやっていきたかったのですけれど、扱うものが特殊ですから」
ひっそりなどと、どの口が言うのか。
イーデンスタムはエルザの心中を見透かしたように胸の内で、フンと鼻を鳴らす。
この地にやってきた。それこそが野心の現れ。
(まあいい、こちらはその野心を利用するだけだ)
そんなことをイーデンスタムは思いつつ、たわいもない会話が進み、やがて小役人が戻ってくる。
新たに机の上へと置かれる、正規の値が書かれた地図。
それをエルザが手にとって、隣のフジワラとこそこそと相談する。
しばらくして、地図の一点をエルザは指さした。
「では、この地を」
イーデンスタムはそこに視線を向ける。
南部で一番大きな土地。
北へいくほどより寒く、都心から離れるために値は低くなる。
逆に、南へいくほど値は高くなる。
つまり、エルザが選んだのは、最も高い値が書かれた土地であった。
「階級は男爵。領主となるのは、そちらの男でよいのだな?」
イーデンスタムは、ちらりとフジワラへ視線を向けた。
と、同時にエルザから「ええ、その通りです」という言葉が紡がれる。
(男は所詮操り人形だろう。いや、情夫かもしれんな)
そんな下世話な考えから、不意に、目の前の二人がベッドの上で絡み合う光景が、イーデンスタムの脳裏に浮かんだが、すぐにどこかへやった。
そして、まだまだ己も若いな、とイーデンスタムはわずかに嬉しさを混じらせつつ反省をする。
「支払いは」
「あいにくと、金貨は重く、銀貨は嵩みます。胡椒での支払いでは可能でしょうか?
もちろん色は付けさせていただきます。駄目でしたら、後日、金貨にてお支払いしますが」
「いや、胡椒での支払いで構わん」
エルザの提案はイーデンスタムにとって、むしろ望むところであった。
その需要を考えれば、胡椒は金貨よりはるかに有用である。
「では、これにサインを」
イーデンスタムが契約書を差し出す。
それをまずエルザが確認し、そののちにフジワラが一通り読んでサインをした。
「では、これでお主……フジワラはドライアド王国の男爵となった。ドライアド王国のため、女王陛下のため、よく励むように」
叙勲式などはない。所詮は一山幾らの売官行為。
そこには利害しかなく、女王に忠誠を誓う儀式など、無意味でしかないのだから。