47.その頃、サンドラ王国では
時間は少し遡る。
それはエルザが、信秀との講和の使者としてサンドリアを出立した頃のこと。
戦いに敗れた農民兵達が、漸く南領へと到着した。
「ああ……やっとここまで来た……」
息も絶え絶えな声で一人の農民兵がボソリと言う。
長い長い旅路。
共に出兵した者の死が心を穿ち、暑さと満足でない食事が体力を蝕んだ。
農民兵達は、心体共にもうボロボロであった。
だが、それでも足を止めずに歩いたのは、故郷に待っている者がいたからだ。
「ほら、あともう少しだ」
隣を歩く者からの励ましの声。
農民兵達は互いを元気付けながら、残りの道を歩いた。
やがて、その集団は幾つにも分かれ、それぞれが己の村へと帰っていく。
そして、村で待っていたのは、親しい者の死を聞かされた村人達の悲しみの声ばかりである。
さて、ところかわってサラーボナー伯爵の屋敷。
サラーボナー伯爵とは、この度の南征において2000の農民兵を供出している南西領の主のことである。
食を好むせいか、体はたいそう太っているサラーボナー伯爵。
その性格も大きな体に似て鈍重といっていいだろう。
そんなサラーボナー伯爵が、日に六回の内の四回目の食事をとっていた時のことだ。
食堂の扉がバタンと開き、執事長が血相を変えて入ってきた。
「大変です! 今、獣人の町に向かった兵が戻って参りました!
サンドラ王国軍は敗れたとのこと!」
それを聞き、サラーボナー伯爵は「またか」とだけ呟くと、そのまま食事を続けた。
サンドラ王国軍は一度敗れている。
ならば二度敗けてもおかしくはない。
サラーボナー伯爵は、どうせまた指揮官が殺されて逃げ帰ってきたのだろう、などと考え、特に心を動かすことはなかったのだ。
「よい、ヴェルサスをここに通せ」
ヴェルサスとはこの地より農民兵を率いていった、サラーボナー伯爵配下の将である。
「そ、それが、ヴェルサス様以下おもだった者は、皆戦死を……」
「な、なに!?」
サラーボナー伯爵は、今度こそ驚愕した様子を見せて、手にあったナイフとフォークを取り落とした。
「ま、まことか……」
「は、はい。王国軍は全滅。この地に帰り着いたのは500人にも満たないとのこと」
「ば、馬鹿な……」
前回のような、指揮官の討死による退却とは違う。
全滅ということは、5000ものサンドラ王国軍が真っ向から敗れたということだ。
その驚くべき事実に、さすがのサラーボナー伯爵も、もう食事を続けることはできなかった。
その後、サラーボナー伯爵はすぐに、報告にやってきた農民兵と面談する。
そして、南へ獣人の町の動向を探るために斥候を放つと共に、王宮へ向けて早馬を出すよう命じた。
すると時を同じくして、王宮から使者が伯爵の下へとやってきた。
サラーボナー伯爵は謁見の間にて王宮からの使者と面会する。
使者は伯爵を前に一礼すると、懐より王の手紙を取り出してそれを読み上げた。
「この度の南征、サラーボナー伯爵の多大な貢献には、誠に感謝に堪えぬところである。
されど獣人との戦いは、我が軍の奮闘叶わず、遂には軍は敗北を喫した。ついては――」
そこで知らされたのは、サンドラ王国軍の敗北。
さらには現在、獣人の町との講和交渉をしているということ。
そして最後に、この度の敗戦に伴い、一年間の税の減免を行う旨が告げられた。
「――以上です」
使者の口より語られる王の言葉が終わった。
瞑目してそれを拝聴していたサラーボナー伯爵は、目を開いて言う。
「……あいわかった。使者殿もお疲れであろう。今宵は我が屋敷でゆるりとしていくがよい」
その言葉に、一礼して謁見の間を辞する王国の使者。
サラーボナー伯爵は、使者が謁見の間を出ていくのを眺めながら、顔に涼しげな色を浮かべていた。
だが、使者が謁見の間よりいなくなると、途端にサラーボナー伯爵の額の血管は裂けんばかりに怒張する。
「王国は、我が領地をなんだと思っているのだ!」
だぶついた頬の肉をぶるりと震わせて、サラーボナー伯爵は叫んだ。
「一年の税の減免だと? そんなもの補償の内に入らぬわ! 王は私を舐めているのか!」
一領主にとって、千名を超す農民の死というのは、決して無視できない数だ。
それもただの千ではない。
働き盛りで、徴兵にも応じる優等な農民である。
それが、王の命令によって失われたのだ。
確かに、戦時において各諸侯が兵を出す義務はあっても、王宮がその被害に対し補償する義務はない。
だが、国を侵されたわけでもなく、王宮が仕掛けた戦争で負けておいて、その補償が税の減免だけというのはあまりにも無体な処置であった。
「甘く見ているな……! 私を甘く見ているな……!」
南領という位置。
依るところのない最奥の地というのが、原因であるとサラーボナー伯爵は考えた。
もし国を裏切れば、サラーボナー伯爵の領地は袋の鼠でしかないのだ。
とはいえ、王国の強気の姿勢は、サラーボナー伯爵領の位置関係ばかりが理由ではない。
一見するとサラーボナー伯爵を蔑ろにしているだけのように思えるが、逆にサラーボナー伯爵に手厚い補償を行えば、果たしてどうなるか。
それは、王が一領主に機嫌を伺っていると取られかねない行為。
すなわち現状が如何に危ういかを、他の諸侯に知らしめることになりかねないのだ。
「今に見ていろ……!」
しかしサラーボナー伯爵は王宮の真意に気づくことなく、心中に怒りの炎をたぎらせた。
それから幾日かが過ぎると、サンドラ王国内では、軍が南征を失敗したという話が流れ始めた。
王都サンドリアにおいても同様であり、サンドラ王国軍の敗北は瞬く間に人々の口に上った。
「騎士団が敗北……? 嘘だろ……?」
半信半疑な顔で噂する城下町の住人達。
当然だ。
相手は獣人。
人間が負けるなど、想像もつかないことである。
「いや、それがどうも嘘じゃないらしい。南領で徴兵された農民達は、その数を4000から1000近くにまで減らして、命からがら逃げ帰ってきたそうだ」
「馬鹿な。たかが獣人だぞ、負ける要素がどこにあるんだ」
「よく考えてみろ、一年以上前の南征失敗。あれは本当に疫病によるものだったのか? ガーランド騎士団長は病に倒れたのではなく、獣人に殺されたのではないか?」
「なにを根拠に……」
「南領の者達は皆、口々に噂しているぞ。実際に経験した者達の言葉だ。
村の者達は家族を失い、いまだに悲嘆に暮れているらしい」
サンドラ王国軍の敗北。
これが噂の域を超え、早期に確固たる情報として広がったのは、サラーボナー伯爵が故意にその情報を流していたからである。
そうすることにより、王に対する反乱の機運が高まれば、と考えてのことであった。
だが、王宮は既に対処を開始していた。
サンドラ王は直轄地にある村々で徴兵を行っており、集めた兵を使ってじきに演習が行われることになる。
その規模は万を優に超え、それは各諸侯に威を示し、また不届きなことを考える者を牽制するには十分な勢力であった。
◆
王都サンドリアにおいて、新興ながらこの数年で大商会にまで成長したポーロ商会。
大きな館を構え、昔は数人しかいなかった従業員も、今では多数抱えるようになっていた。
「今、帰ったで!」
エルザが、自身が商会主を務めるポーロ商会に帰ってきたのは昼過ぎのことである。
サンドリアを発ってから、およそ20日ほどの留守。
既に城への報告は済み、その手には僅かばかりの報酬が握られていた。
「お帰りなさい、エルザさん」
エルザが執務室の扉を開けると、中で書類作業を行っていたライルが挨拶をする。
「どや、麦は」
「万事順調ですよ」
それを聞いてエルザはニンマリと笑顔をつくった。
エルザが王宮から受け取った本当の報酬は、その手にある僅かばかりの銀貨ではない。
それは情報。
数ある商会の中で誰よりも早くサンドラ王国軍の敗北を知ったエルザは、来るべき戦争を予感して、ライルに麦の買い占めを命じていたのだ。
「はい、これ。お土産や」
「これは?」
エルザが懐から、がんじがらめに繋がった歪な金属を取り出した。
しかし、それはライルには見覚えのないものである。
「知恵の輪、いうてな。フジワラさんから貰ったもんなんやけど、その繋がってるんが、うまいこといじくるとバラバラになるんや。なかなか難しいで」
「へえ」
知恵の輪を手に持って眺めるライル。
ちなみに、貰った五つの知恵の輪は複雑な物ばかりであったが、エルザはそれらを全て解いている。
「ま、量産しても売れるかどうかは微妙やな。個別につくって、お得意さんに配る程度でええと思うわ。
そんなことよりも、や。北の情勢はどんな感じや?」
エルザの瞳が、獲物を狙う鷹のように鋭くなった。
「ロブタス王国は軍備を整えています。麦、塩、武器の動きが顕著で、傭兵も集まっているそうです。
対して、シューグリング公国はなんの動きもありません」
「やっぱロブタス王国は攻めてくるか……こっちの状況は?」
「農民を徴兵して、軍事演習を行うようです。その規模は2万とも3万とも言われています」
「王様も思いきったことするなぁ。城の倉を空っぽにする気かいな」
数万の農民を徴兵するのは、決して安くはない。
春麦(春に撒いた麦)はこれからが刈り入れ時である。
にもかかわらず、数万という労働力が無くなれば、必然的にその収穫も減少する。
それは、王宮が負担しなければならないものだ。
「でもまあ、これでうちらの国の敗けはないやろ。
よし、麦は早めに売るで。徴発されたらかなわんしな。万が一を考えて資金は分散、あとは国債もようけ買っとこか」
「わかりました」
ポーロ商会はエルザという主の下、来る戦争に向け、一丸となって動き出していた。
その一週間後、王宮直轄地の北部において、3万近い数の農民兵による演習が行われた。
これにより国は多くの財を消費させたが、王の力を軽んじていた各諸侯は、王宮の底力はまだまだ侮れぬとその評価を改めることになる。
しかしそれでもなお、戦いの準備を続けるロブタス王国。
ロブタス王国には、大陸中から傭兵団が続々とやって来て、サンドラ王国との国境に近い場所に集結していった。
そうこうしているうちに、サンドラ王国は獣人の町と講和を成功させる。
これにより、サンドラ王国は南を気にすることなく、全勢力を北に当てることができるようになったのである。