その女の名は、おゆう、と言った。
長い髪は緩く櫛で結われ、器量良しかつ背のきりりとした、気の強い女であった。
その強くも儚い生き様を、燕は生涯忘れないだろう。
巷ではある北の村が魔物に襲われたと囁かれ、それを確認した例の殿様が、幕府へ『黒牙乾』の報告を為した頃。緋雄と燕は、北ノ郷村から南に三日ほど歩いた、ある山中に居た。
険しい斜面の上にある緋雄の塒は、知らねば見つける事の出来ぬよう、巧みに隠されている。夕陽が辺りを橙に染める中、緋雄は後からぜえぜえと着いて来る燕を、横目で軽く睨んだ。
「ああ、ようやと着いた。全く、お前の足が遅えんだよ」
「はぁ、はぁ……ちがうって、なんで、こんなとこに、すむんだよ?」
「アァ? そりゃ、俺が魔物だからだろ」
緋雄はそう眉を顰めると、その体躯に似合わぬ身軽さで、跳ぶように斜面を登った。
かなりの傾斜の上に、崩れやすい質の岩場は、大人よりも身軽な燕にすら非常に登りづらい。四つん這いになり、しがみつくようにしても中々進まず、終いには足を滑らせ転けてしまう。
「畜生、ばかっ、のぼれねえッ!」
思わず燕が吐いた悪態に、先を行く緋雄の耳がひくりと動く。するとその背が振り向き一跳びし、ひらりと燕の傍らへ降りた。
「どれ、仕様が無いな、この餓鬼は」
「う、うわ!」
「暴れんな、上から落とすぞ馬鹿ッ」
まるで荷物でも持ち上げる如く、緋雄は燕の腹に左腕を回すと、軽々と抱え上げた。そしてそのまま大きく跳び、斜面の上まで一気に上がった。
「おろせっ、ばか緋雄ッ」
「手伝って貰ったくせに、何だその言い草は? 素直に礼くれえ言ってみろよ」
恥ずかしいのか何なのか判らないが、顔を赤らめた燕がそう噛み付くのを、緋雄は呆れたように受けた。
──ここまでの道中、緋雄に助けられる度に、燕は反抗的な態度を見せた。子供の癖に子供扱いされるのを嫌うのだから、全く困ったものである。なら、着いて来ず勝手にすれば良いと緋雄が言い放てば、嫌だと叫んで必死に追いかけて来る。
本当に、可愛気が無い。こんな調子では先が思いやられると、緋雄は暴れる燕を下ろし、内心で頭を抱えた。
そこから森の中に少し入ると、二人の眼の前に、何処からともなく一人の幼女が現れた。おかっぱと赤い着物は一見人間に見えるが、無表情な顔は嫌に白々として、大きな瞳は総て黒眼で占められている。その異様さに燕が唖然とする前で、幼女は緋雄に畏まり、頭を垂れた。
「おう、小守。変わりは無えか?」
そう緋雄が問うのにこくりと頷くと、小守はこちらに背を向けて、小さく口笛を吹いた。
するとそこにある木立がゆらゆらと歪み、奥から武家が住まうような、立派な屋敷が現れた。これが緋雄の塒らしい。彼は傍らの小守に礼を言い、その頭を一つ撫でてから、燕を伴い門戸を潜った。
「小守って、なに?」
「ああ、ありゃこの辺に昔っから住んでる魔物だ。ここの塒に纏わる事と、おゆうの世話を全部任せてる」
「おゆう?」
知らぬ女の名に、燕が訝しがる処へ。奥から鶯の着物を纏った妙齢の女が現れ、こちらへ急いでやって来た。
「お帰りなさい、旦那!」
「おう、悪いな、ちょっと遅くなっちまった。思わぬモンを拾っちまってなァ」
そう緋雄は言うと、帰宅を迎えた女に相好を崩した。
女は寂しかったとか、逢いたかったとか言いながら、草履を脱ぐ緋雄の背に絡み付き、その長い髪を愛おしげに指で梳いている。まるでその眼には、傍らに立つ燕の姿なぞ、全く映って居ないようだ。
そんな女の様子に、燕がどうしたものかと困っていると、緋雄は燕に草履を脱げと示してから、女の肩を抱き寄せた。
「おゆう、この餓鬼は燕だ。お前の村から拾って来た。何にも知らないから、色々教えて仕込んでやってくれ」
「旦那、まさかこの小汚い子供が、『贄』だったのですか?」
「あー、まあ、事情があってな。そういう事だから、宜しく頼むぜ」
「嫌です」
おゆうはきりりと柳眉を釣り上げると、上からしたまでじろじろと燕を見回してから、硬い声でそう切って捨てた。
「まずもって、汚い。先にちゃんと洗って、その土汚れを落としてからでないと、私はその子と話もしたくありません」
「ああ、そうか。じゃあ燕、取り敢えず風呂に入って来い」
「旦那もです。随分と血の匂いがします。私が湯に入れて差し上げますから、召し物も変えて下さいね」
「……おう」
「お前もまだまだ上がらないで。家に上がる時は、必ずそこの桶の水で、足を洗いなさいよ」
「へ?」
「燕、言われた通り洗っとけ」
強い調子で指図するおゆうに気圧されし、おたつく燕はおろか、主である緋雄さえも異を唱えられない。まるでこれでは、ここの主人はおゆうでは無いか。足を洗った途端に背をせっつかれ、真っ直ぐ湯殿に連行される緋雄を見て、燕は呆れた笑いを洩らした。
「痛っ、痛いって、さわんな、ばかッ!」
散々嫌だと言ったのに、介添えについた小守に、糠やら灰やら付けた手拭いで、全身をごしごしと擦られる。それが終わると今度は、何回も頭から湯を掛けられた。
穴蔵に居たせいか、燕に入浴の習慣は無い。贄になる時に入ったのが初めてだったから、小守が手拭いで擦る度に、まるでおろし金で擦られる大根宜しく、体からたくさんの垢が出た。その量たるや、流石に小守も顔を顰めたくらいである。
それに、湯に入ると体がふわりとするのも、水や湯に浸かった事の無い燕には慣れない。総檜の浴槽がやたら大きいのも、何だか流されそうな気がして怖くて、へりに爪を立てて掴まった。
そうしてすっかり綺麗になった燕は、脱衣処に用意された着替えを見て、あんぐり口を開けた。
それは白地に桜模様の上等な袷であったが、その華やかな色合いは、記憶の中でいつも母が纏っていた着物と良く似ている。つまり自分は女として扱われていると曲解した燕は、途端に顔を顰めた。
「おい、小守ッ なんだこれは!」
そう傍らの小守に苛々と叫ぶと、小守は小首を傾げたままで、すう、と消えて行く。どうやら都合が悪くなると、逃げる性質らしい。
「コラッ、にげんなばかッ、まて、ちくしょうっ!」
暫く小守を呼んだが、一向に姿を現さない。脱いだ物も既に片された後である。燕は文句を言いつつも、仕方無く着替えを纏った。
案内されて来た廊下を一人戻り、うろうろと広い屋敷の中を彷徨う。そのうちに美味そうな、良い匂いが流れるのに気付いて、燕はそちらへと歩みを進めた。
近付くと、幾つも連なる襖の向こうから、楽しげなおゆうの声が聞こえる。どうやら早々に上がった緋雄と共に、既に寛いでいるらしい。少し気後れしたが美味い匂いに耐えきれず、燕は襖をがたりと開けた。するとだだ広い部屋の真ん中で、二人は何やらじゃれ合いながら、楽しげに笑っていた。
「……あら、似合うじゃないの」
少しの間の後に、僅かな皮肉を滲ませて、おゆうがそう呟いた。二人の前には酒と肴の乗った脚付膳が置かれ、足を崩して座ったおゆうの膝には、緋雄がご機嫌で頭を載せている。
魔物と言えども、大の男がへらへらと女の膝に甘えて、何と情けない姿であろう。燕はそう思うと、二人の前へ無遠慮に進み、膳の前にどっかと座り込んだ。
「おい、ばか犬」
「アァ?犬言うなって、言っただろうが」
「うるせえよ、はずかしい。男のくせに」
そう燕が憎々しく言った途端に、おゆうは立ち上がると燕の傍に行き、その山吹の頭をぽかり、と叩いた。
「いてっ!」
「何て口の訊きようだ、この礼儀知らず!」
「なっ……」
「全く生意気だね、お前は。拾って貰った癖に、旦那にありがとうの一つも言えないのかい? そんな口を利くうちは、一緒に飯なんか食べたくもない。出てお行き!」
そう頭ごなしに叱られ、唖然とする燕の腕を、おゆうは乱暴に掴むと無理矢理立たせた。そうしてずんずん引っ張り、廊下まで押し出すと、ぴしゃりと襖を締めてしまった。
「な、なんだよ、ちくしょう!」
この、いきなりの仕打ちは一体何なのか。燕は怒りに襖を蹴り上げると、どすどすと足音高く部屋を後にした。
結局この日、燕は別部屋で飯を食い、そのまま床に入った。
ふわふわと綿の入った布団に寝るのも初めてで、温くて心地良いものの、何だか落ち着かない。燕は眠れず、上掛けを海苔巻きの様に巻き付け、体を丸く横たえた。
もうあの穴蔵に戻る事はないと、頭では判っている。だが眠って目覚めたら、総てが幻で消えているのではないかと思うと、不安が押し寄せて来る。
「緋雄……」
一体今頃、何をしているのだろう。
段々堪らない気持ちになり、燕は起き上がると部屋を出た。
薄暗い廊下は冷え冷えとして、裸足の足裏にひたりと吸い付く。もう真夜中だからなのか、小守の姿も見えない。所々に蝋燭の炎が揺れる中を、燕は暫くあちこち歩き回って居た。しかし角を曲がると、ふとか細い女の声がするのに気付き、ついその方へ足を進めた。
突き当たりの角を左に曲がると、薄ら灯りの漏れる部屋がある。其処まで行く手前で、燕は不意に足を止めた。
襖の向こうから洩れるのは、艶かしく濡れたような、おゆうの高い声。つい固まる燕の耳に、それは何度も昂まりを含んで、一際高く響いた。
「ああ、旦那……黒牙乾、さま……ッ」
その名を呼ぶ声と息遣いが、襖の向こうで行われている行為を知らせて来る。燕は二、三歩後退ると、背を向け逃げ出した。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。