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昂月ノ巻
昂月ノ巻 其ノ二
 ようやと足元が見える明るさを得た、夜明け近く。男達は荒く息を継ぐ馬から降りると辺りを見回した。
 恐岳のおよそ七合目。見渡す限り岩肌が露出し、針葉松が地を這うように点在する。足元は崩れた小岩が不安定に積み重なり、気を抜けば転んでしまいそうだ。そこかしこから吹き出す水蒸気は硫黄のような臭気があり、眼下を満たす雲海に朝靄も加わって一際異様な雰囲気を醸していた。
「まるで賽ノ河原、だな」
 洩れた低い呟きが無風の空を震わせる。無言の同意のなか式鬼使いはきょろきょろと眼を遣り、やがて少し離れた岩陰で屈んだ。
「やはり我が犬達で仕留めるのは叶わず。だがしかし、それほど離れてはいないはず」
 拾い上げた紙片に残留した邪気がそれほど散っていないのを確認すると、式鬼使いは山の頂上を睨みつけた。
「おい」
 髭面の合図に頷くと式神使いはまた札を取り出し、今度は白い小鳥を創った。
「我が目となり探れよ」
 言ちながら、頭を撫で眼を開かせる。それから曇天目掛け放つと、小鳥はたちまち翼を広げ頂上へと飛んだ。
 辺りを探りつつ馬に水を飲ませた後、小隊は並足で再び斜面を登り始めた。暫く歩みを進めていたが、ふと先頭の式鬼使いが立ち止り、ついと肩口あたりまで左手を上げる。途端に面々の緊張が高まり、一斉に辺りを探った。
 僅かに感じる邪気の気配に続き、ごりりと岩を踏む音がする。途端に小隊の左後ろを黒い影が横切った。
「居たぞ!」
 そう鋭い叫びを発すと共に、一本の破魔矢が飛んだ。矢は白い尾を引きながら影を追い、弧を描いて消えた低木の向うへ吸い込まれる。撃ち込んだのは隊の後方にいた背の低い弓匠で、彼は破魔矢を自在に操る能力を持っていた。
 しかしどうやら仕損じたらしく、影の気配は幾つかに別れ、離れては近付き誘う。緑の犬達が殲滅された手応えから使役魔が複数居ると察していた小隊は、三手に別れるとそれぞれ追跡を開始した。

 己の身長に届くほどの長刀を背負った痩せぎすは、紅鞭を手にした仲間と二人で眼前の影を追っていた。
 影は長い黒髪を靡かせた、かなりの長身である。だがすばしこく、容易には捉えられない。いつの間にか辺りに霧が増し視界を霞ませて行く中、このままでは見失ってしまうと紅鞭は眉を寄せた。
「糞ッ、逃がすものか!」
「はやるな、落ち着け!」
 馬の腹を蹴り手綱で急かすのを見て痩せぎすが制するが、紅鞭には通じなかった。
 紅鞭は鞭の名手だが、小隊の中では一番若い。初の遠征で焦れば、時にはそれが命取りになるやも知れない。痩せぎすがそう危惧した矢先、影が急に振り向き刀を抜いた。
「おお!」
 間髪入れずこちらへ向かって来る。痩せぎすは刀を抜き、紅鞭は右手を大きく振り被った。
「イヤアッ!」
 細くしなやかな鞭はあっという間に舌先を伸ばし、影の腹に括りつく。思い通りに巻き付いた手応えが伝わって来たと思いきや、影が強く鞭を引いた。
「おおっ!」
 体勢が崩れ馬上から転がる一方で、痩せぎすが馬に跨がったまま鞭を断つ。紅鞭は伝わる勢いに吹っ飛ばされながらも身を翻し、見事岩の上へ着地を決めた。
 長刀を構え直した痩せぎすは迫る影と交え、襲い来る刃を弾き返した。
「雷珠!」
 影が身を引いた隙に刃へ強く命じる。途端に刃は小さな火花を散らすと、太い稲妻を発した。一直線に影を貫き、轟音と衝撃が辺りの石砂を吹き飛ばす。撃たれた影はぐずぐずと縮み、やがて岩の隙間へ染みるように崩れた。
「仕留めたか?」
「さあ、どうだか」
 背後から問う紅鞭へ気のない返事をすると、痩せぎすは馬を降り煙を上げる影へ近付いた。刀を構えたまま覗きこむと、そこには液状の黒塊が蹲っている。動く気配がないところで滅してしまおうと、痩せぎすが懐から封札を取り出した瞬間、黒塊が爆ぜ犬のような獣が飛び出た。
「ぐああああ!」
 咆哮が痩せぎすの右足首へ噛み付き、一気に引き倒して黒塊へ引き摺りこもうとする。このままあそこに引き摺りこまれれば恐らく命はない。紅鞭は咄嗟に腰の鞭を握り、痩せぎすの上半身へ巻き付けた。
「うおお、おの、れえっ!」
 痩せぎすが引き裂かれそうな苦痛に唸りながらも、長刀で獣の頭を斬り付ける。断たれた獣は燃える緋眼をくわ、と見開き一気に足を食いちぎった。
「ぎゃああああ!」
 悲鳴と血の帯を引きながら宙を飛ぶ痩せぎすを、紅鞭が引きつけ受け止める。勢いのまま地を転がり、その痛みに苦悶しつつ起き上がってみると、伏した痩せぎすの千切られた足から黒炎が上がっていた。
「こ、これは一体……」
「ひいいっ、き、斬ってくれ、足を斬ってくれえ、早く!」
 焼かれ腐る苦しみに、痩せぎすが狂ったように叫ぶ。未体験の危機にたじろいだ紅鞭に、頭を割ったはずの獣が死角から飛び掛かって来た。
「ぎゃっ!」
 頸動脈を穿たれ、脊椎が砕かれる鈍い音が響く。一撃必殺の噛みは紅鞭の命を断ち、さらに痩せぎすへ狙いを定めた。飛び掛かってくる獣を土色の顔で睨みつけながら、痩せぎすは印を切ると切っ先を獣へ向けた。
「雷珠、連弾……」
 刀身が光を孕むが、時既に遅し。獣は鋭い牙を剥きながら痩せぎすの顔面へ噛み付いた。

 二人が斃された一方で、弓匠と法螺貝を背負った巨漢は別な影を追っていた。
 影は例えれば虎のような、大きな四足の獣だ。黒くしなやかな背には鮮やかな山吹のたてがみが揺れている。左右不規則に跳ねながら走る背を狙い、弓匠が馬上で矢を番えた。
「射よ!」
 破魔矢が空を切り一直線に獣を狙う。しかし獣は急に左へ逃げると斜面を駆け降り始めた。
 つられるように弓匠と巨漢も後を追う。たちまち地形は角度を増し、転がりおちんほどの急斜面に入った。望む谷は深く、跳べば下まで落ちてしまいそうだ。
「ここで我等を振り切るつもりか。だが、そうはいかぬ!」
 巨漢がそう吠え、馬を走らせたまま法螺貝を構えて強く吹いた。
 通常のものと違い音はしないが、代わりに不可聴の音域が辺りの地面をぐらぐらと揺らし、獣の足元に地滑りを起こさせる。巻き込まれかけたたらを踏む獣の背に、先ほど放った破魔矢が迫った。
 これで終いだ――弓匠が勝利を確信した次の瞬間、矢は一刀両断され、獣から山吹が飛び下りた。
「人間? いやまさか」
 小太刀を携えこちらを振り向いた体は女のように細身で、走り去る獣を一瞬忘れるほど鮮烈であった。
「お、俺が行く。お主は獣を!」
 湧いた感情に支配された弓匠は焦ったように叫び、巨漢から離れた。
「待て、おい!」
 追う声を構わず馬へ鞭をくれ、山吹目指し走る。番えた鏃の先には、燃えるような瞳がこちらを睨んでいる。
 生け捕りにして封札で縛り上げ、泣きながら命乞いさせてやりたい。力の差を思い知らせ、下僕として傅かせてやろうか――浅ましい煩悩に自嘲が洩れた瞬間、目前の地面が勢いよく弾けた。
「うわっ!」
 土塊と共に獣が飛び出し、弓匠の跨がる馬へ食らいついた。右前脚を砕かれた馬が断末魔の悲鳴を上げながら暴れる。傾ぐ馬上で弓匠が姿勢を崩した矢先、散りゆく土塊の向こうから山吹が出現した。
「なにっ!」
 駆け寄り獣を踏み台にして跳躍し、頭から両断せんと刃を振り下ろして来る。弓匠が咄嗟に左腕の手甲ではねのけると、山吹は体勢を崩しながらも身を捻り、蹴りを放って来た。
「うぐっ!」
 まるで猫のようだと、右のこめかみを割るような激痛のなかでぼんやり思う。やがて弓匠は馬上から落ち、脳天を強かに打った。
 ひくひくと手足を痙攣させる弓匠を構わず、巨漢は馬から飛び降りると法螺貝を構えた。
「地岩流砂、我が()に水となれ」
 続けて大きく回転しながら法螺貝を強く何度も吹く。すると獣と山吹の周囲がぐらぐらと泡立ち、あっと言う間に土岩が液状化した。
「くっ!」
 山吹が歯軋りしながら獣の背へ飛び乗る間に、土岩の流れは池となり湖へと成長して山吹達を飲み込まんとする。そして遂に獣の足が捉えられ、沈み始めた山吹達はなす術なく腹まで飲まれた。
 思惑通り捕えたことに、巨漢が満足そうにほくそ笑む。しかしそれはすぐに、耳障りな風切り音によって崩された。
「何の音だ……まさか!」
 音は徐々に大きくなり、やがて頭上の雲中を旋回する。そして稲妻が一閃したかと思うと、黒く輝く風が巨漢の眼前を横切った。それは一瞬の出来事で、巨漢の眼では何者か見極めることは出来なかった。ただ一瞬、黒曜のごとく美しい鱗が見えたと思った。
「……やられたか、くそう」
 既に気配はなく、捕えたはずの獣と山吹も見当たらない。つまりはそれらを奪還されたのだと巨漢は悟った。そして同時に、初めて遭遇した巨大な魔物らしきものに、言い表せない恐怖を感じた。
 がくがくと膝が震え、へたりと地べたへ座り込む。その弾みに転がった法螺貝は大きく割れ、鈍い音を発てた。

 髭面と組み他の影を追っていた式鬼使いは、鳥のさえずりにふと頭上を見上げ眉を寄せた。
「やられてしまったか……」
 空を舞う白い鳥が仲間達の様子を伝えてくる。式鬼使いは先を行く髭面の隣へ馬を付けると、手短にその様子を報告した。
「そうか、じゃあ本体は俺らの追ってるほうか」
「恐らくは。彼奴は黒炎を使います」
「黒炎か。確か三年ほど前に、北方の村がそれでやられたと聞いたことがある」
「本当に賞金首やも知れませぬな」
「もしそうなら大変だな」
 瓢々とした顎鬚の言葉に頷くと、式鬼使いは逃げる影を睨みつけた。
 ふつふつと怒りが滾り、早く仕留めんと気が逸る。夜通し動いたため馬達の限界も近い。
「仕掛けましょう、政直様」
「ああ、そうだな白藤」
 髭面こと政直は頷くと、腰の刃をゆっくりと抜いた。
 青い光を放つ刀身は通常の本太刀と変わらないが、その柄頭は拳大の蕾に似た塊がくっついていて、何やら異様な形状だ。
 一方、式神使いは例の如く懐から札を出し十匹の犬を創り上げ、盾となるよう自分たちの前方を走らせた。
「行くぞ」
「御意」
 二本の鞭がしなり馬の尻を打つ。甲高いいななきを発した馬は小石を蹴散らしつつ、前方の影を迫った。
 







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