妖星ノ巻 其ノ六
翌日。
朝から出掛けた緋雄と燕は、一日のほとんどを物見に費やした。
城下を見下ろすように建てられた美しい城が、陽光に白く輝くのを目の当たりにし、燕はただ圧倒された。そして、そこに巡らされた石垣の天辺から広がる街並を眺めれば、数多の人間がせわしなく蠢いている。その様子に、自分がいかに狭い世界で暮らして居たかを実感した。
次に訪れた近くの寺にはたくさんの参拝客が居て、皆一様に賽銭を投げては、眼を閉じ手を合わせている。燕はその群中で立ち尽くし、ぽつりと呟いた。
「こんなもんまで、作っちまうなんて」
見上げた仏像の顔は遥か頭上で、あんな高い場所にあるものをどうやって造ったのか、燕には想像も付かない。積み重ねられた歴史と人間の信心、努力の結晶を前に、緋雄は呆れたように溜息を洩らした。
「一人ひとりは非力なくせに、良くこんなもん造るよなァ。全く、見る度に嫌ンなっちまうぜ」
「ん……でも、すげえや」
「アァ?」
「俺には、こんなもの造るなんて、想像も付かない。この像の名前も、謂われも知らないけど、きっとたくさんの人が苦労して造ったんだ。そう考えたら、やっぱりすげえ事だ」
燕は眼をきらきらさせ、仏像をまた見上げる。その様子を暫く眺めてから、緋雄は踵を返した。
「行くぞ。ここでいつまでも、こんなもん眺めて居られるか」
「あ、ちょっと待てっつの!」
後ろから燕が慌てて駆けて来るのを感じながら、緋雄は構わず足を進めた。
予想はしていたし、己が仕向けた事だったのだが、緋雄にとって燕の反応は面白くなかった。
あんな北の小さな村で、ずっと穢れと蔑まれて来たくせに、何故燕の心は捻じ曲がっていないのか。本当なら、もっと『世の中』や『人間』という存在自体を憎んで居ても良い位である。
だが燕は、飯の美味さや人間の創造物に、簡単に感動を覚える。その様子がまるで、燕が人間に好感を持っているように見えて、緋雄には納得が行かなかった。もっと言えば、その外観の問題すらなければ、燕は人間の中で暮らしたいのではないかとも思える。そこまで考えた緋雄の脳裡に、狛の言葉が蘇った。
――こんな事をして、一体何の得があるのか。
それに対し、緋雄の中に明確な答えは無い。喰らうためで無いのは確かだが、燕と共に居るのは独りで生きるより楽しい、位しか答えられない。けれどそれは、非常に不確定な感情である。
緋雄がそんな思いに捉われているのを知らずに、燕はまた興味を惹く対象を見付けると、勝手にふらふらと足を向ける。今度は香煙が立つ大きな甕が気になったらしい。燕は近寄ると覗き込んで、緋雄を呼んだ。
「なあ、こっち来いよ! 何だか面白えぞ」
「……俺は良い」
人間にとっては有り難い煙でも、魔物にとって、況してや鼻の良い緋雄にとっては非常に臭い。思い切り顔を顰める緋雄を見て、燕はようやとそれに気付き、早足でこちらへ戻って来た。
「悪い、つい……俺、思い切り浴びて来ちまった」
「ふん、俺が苦手なのは、お前も知ってるだろうが。嫌がらせか、それとも何かの仕返しか?」
「そんな事するか! 本当にちょっと忘れちまっただけだって。だって、今のお前は真実人間に見……んぐっ」
「それ以上言うな馬鹿」
燕の薄い唇を、指で素早くきゅ、と摘まんで閉じる。更に見下ろすように軽く睨み付けると、燕はごもごもと何事か呟いて、眼を白黒させ藻掻いた。それが面白かったのだろう。緋雄は笑って手を離すと、何か悪戯を思いついたように眼を細めた。
「じゃあ、燕。取り敢えずその臭い旅装束を着換えろよ」
「へ? でも俺、替えの着物なんて持ってねえぞ」
「知ってる。だから、着替屋へ行くんだろうが」
「何だ、着替屋って?」
「行けば分かる」
その店の名称からして訝しく思ったが、緋雄に嫌な思いをさせてしまった手前、行かぬとも言いづらい。燕は少し困ったように眉を寄せると、足早に鳥居を抜けて行く緋雄を追った。
***
「……だからって、何で俺がこんな格好を」
大きな姿見の前で、燕は悔しそうに唸った。
――仏像を祭る寺から大路を戻り、逗留する旅籠を過ぎて街の南端に突き当たると、その一帯はぐるりと塀で囲まれており、赤刻門と呼ばれている。現在、緋雄と燕はその敷地内にある『着替屋』の店内に居た。
赤刻門を潜ってからすぐ、燕は違和感を感じた。
門前の本路に立ち並ぶ建物の殆どには赤い格子が嵌まり、奥は小奇麗な座敷になっている。明らかに何かの店なのだが、昼間であるにも関わらずまったく活気が無い。
「何だよ、ここは?」
「大人の遊戯場だ。まあ、細かい処は気にすんなよ」
緋雄は笑って応えると、ずんずんと街の奥へ歩みを進める。迷子になっては敵わぬと、燕は少し早足で追い掛けた。
細い小路をくねくねと曲がり、一際大きな旅籠らしき建物の裏を行く。そして突き当たりで緋雄が示したのは、桃色の打掛けが戸口に大きく描かれた店だった。
一声掛け足を踏み入れると、お長に化粧を施し科の効いた、怪しい男店主が現れた。そして緋雄は彼にあれこれ言いつけると金を渡し、燕を奥の衣裳部屋に放り込んだ。
その結果が、この姿である。
「ちっくしょう、野郎、完ッ全に遊びやがって」
そう歯軋りした燕は髪を結われ、薄い化粧を施され、粋な蒼縞の着物と紅椿の柄帯を身に付けている。衿を大きく扱いて細身に裾を着付け、帯は角出しにして低い位置で締めるのは、今一番の流行りだそうだ。
小股内股で歩き、肩でもしんなりと落とせば大層良い女に見えるのだが、燕にそんな事を要求するのは所詮無理である。案の定、店主がふと眼を離した隙に、燕は朱の腰巻が露わになるのも構わず、思いっきり股割をかました。
「あらあら、駄目よ、着崩れちゃうでしょッ! 良い? おなごは淑やかに、股なんか簡単に開いちゃ駄目。開くのは寝所で、旦那の前だけにしときなさいな」
そう店主が燕をたしなめるのを、遊び人風の白い着流しに着替えた緋雄は、げらげら笑いながら見ている。燕は真っ赤になり、綺麗に紅を差された唇を思い切り歪めた。
「こンの糞野郎が、後で覚えてやがれッ!」
「んまあ、何て汚い言葉だこと!」
店主はそう厳つい顔を顰めると、嫌がる燕の裾を慌てて直しにかかる。そして紅の帯の間に何度も手を突っ込みながら、緋雄に問い掛けた。
「とんでもないお転婆ですねえ、この子は。それともなあに、旦那はとびきりのじゃじゃ馬がお好みなんですか?」
「あー、まあ、な。躾の出来た馬より、懐け甲斐があるってなもんで」
「んまあ、旦那ったら、素敵ねえ。アタシも旦那になら、手名付けられたいわ」
くねり、と肩を揺らし店主が流し見るのを、緋雄が眼を逸らしさらりと交わす。まともな受け答えはしたくないらしい。
それから燕の着崩れが整った辺りを見計らい、別れを惜しむ店主に幾許かの心付けを押し付けると、二人は足早に店を出た。
気付けば陽は落ち、あちこちの店から淡い光が洩れている。下駄を鳴らしその前を通ると、艶かしく呼ぶ声と共に、白粉に染められた生気の無い顔が幾つも緋雄を見詰めた。
「何だ、ここ……?」
「この店は色茶屋だ。つまりここは色街。まあ、女が自分を売る場所だな」
あちこちから呼ぶ声に愛想良く手を振り、緋雄はそうさらりと燕に告げた。
「色、街……売る?」
「おっ、あの女、イイ女じゃねえか。あー、寄りてえなァ!」
緋雄がそう声を上げる傍らで、燕は暫く考えていたが、不意に小さな声を上げた。ようやと『色』の意味が、判ったらしい。途端に恥ずかし気に俯くと、繋がれた緋雄の手を強く引いた。
「イタッ、こら、何だよ?」
「ウッセエ、この助平! 愛想振り撒いてんなッ。一体何の気で……」
そう燕が声を荒げた途端、肩先が僅かに、すれ違った誰かの体に触れた。
「痛えなあ、女」
低い濁声に燕が振り向くと、そこには見るからに悪相の男が、腕を擦りながらにやにやと笑っていた。
「何だ、お前?」
「おお、俺を『お前』呼ばわりとは、随分威勢の良い女だな」
「テメエ、兄貴に何て口訊きやがる、アァ?」
兄貴と呼ばれた悪相の横から、派手な赤の着流しを纏った若造が、懐に忍ばせた短刀の柄をちらつかせてこちらへ迫る。負けじと燕は一歩踏み出し、その若造を睨み付けた。
「うるせえ、この出っ歯」
「な、何だとこのアマ!」
怒る出っ歯が、燕の胸倉を掴もうと手を伸ばす。それを一瞬早く、緋雄の手が払った。
「オイオイ、止めてくれ。コイツは元来、口が悪いんだ。だから、尚怒らすような真似はしないでくれよ」
「うるせえ、元はと言えば、この女が兄貴にぶつかりやがったんだぜ? なあ、兄貴」
出っ歯が見え見えの言い掛かりを付け、背後に立つ兄貴が痛い痛いと、わざとらしく腕を擦る。緋雄と燕に因縁を付け、金品を巻き上げようという腹らしい。
気付けば周りに人垣が出来、その中から奴等の仲間らしき輩が次々に姿を現す。それが八人に増えたところで、兄貴はにやにやしながら緋雄へ告げた。
「俺の腕、折れちまったかも知れねえ。骨接ぎに幾ら掛かるかなァ? どうするよ、兄さん」
「ハァ? 俺はこれから、コイツと遊びに行くんだ。生憎、お前等に払う金は無え。だから、見逃してくれよ」
「見逃せ、ってか?」
とんだ腰抜けだと、二人の周りから嘲笑が沸く。じりじりと距離を狭める悪相達の中から、野次が飛んだ。
「じゃあ、その女置いてけ。それでチャラにしてやるから」
「置いてくのは良いが、お前等の手に、コイツが負えるかなァ?」
「アァ? 畜生、何だよそれ! こんな格好させた上に、俺を置いてくだと?」
けんけんと吠える燕を見て、緋雄は面白そうに笑って居る。そのうち燕が犬と罵ると、緋雄の眉がひくりと跳ねた。
「だから犬言うなって!」
「うるせえ、じゃあ馬鹿!」
「俺は馬でも鹿でも無えって、何度言ったら覚えやがる、この糞餓鬼!」
「もう俺は餓鬼じゃねえ! 一人で寝れるし、厠にだって行けらあ!」
「ハッ、そうかよ、だが一人でお使い出来んのか?」
「そ、そのうち行けるようになるっての。つうかお使いなんて、今関わり無いだろうがッ」
緊張感を欠いた間抜けな罵り合いに、流石に悪相共もげんなりした顔になる。だが、ここで引きさがる訳も無い。出っ歯はやおら腕まくりすると、背を向けていた緋雄に啖呵を切った。
「うるせえうるせえ! 痴話喧嘩なら、この山城一家にのされてから、あの世でやるんだな!」
その一声を皮切りに、兄貴を除く悪相達が次々に拳を握る。そうして燕の後ろに陣取った頬傷のある男が、まず燕を捕まえようとその肩に手を掛けた。
「触んなッ」
「ぐあ!」
掴んだつもりが躱され、逆に手を引かれ前のめりになる。一瞬がら空きになった頬傷の脇腹に、燕の肘ががつりと食い込んだ。途端に意識を飛ばした頬傷が、地面に沈んでいく。そのまま首に手を掛け、息の根を止めようとした燕に、緋雄が他の悪相を投げ飛ばしながら叫んだ。
「殺すな、後が面倒になる!」
「ハァ? チッ!」
面倒臭いと舌打ちした燕に、今度は短刀を抜いた出っ歯が突っ込んで来る。しかしその動きは、緋雄と修練している燕にとって緩慢だ。強く突かれた切先を軽々と交わし、燕はそのまま脛に回し蹴りを見舞った。
「ぐ、うあっ!」
思わず出っ歯が引っくり返り、衝撃に苦鳴を洩らす。燕にその腹を更に蹴り上げられ、短刀を握ったまま白目を剥いた。
一方緋雄は、自分よりも一回り大きな禿の巨漢と対峙していた。
巨漢の手には、抜き身の脇差が握られている。それを睨み付けた緋雄は脇差も抜かず、楽し気に口の端を歪めた。
「随分鈍った刀だな。血曇りばかり付けやがって、そんなんじゃ俺は斬れないぜ?」
「うるせいや!」
そう唸る巨漢が一気に振りかぶり、緋雄へ走り寄る。袈裟に薙ぐ刃をふわりと避け、返す刀に跳んで逃げる。その意外な身の軽さに驚きながらも、巨漢は更に脇差を握り直し、腰だめに構えた。
「ウリャアッ!」
鋭く突き出した切先が見事緋雄の腹に吸い込まれたと、一瞬喜んだのも束の間。瞬きする間に白い着流しは消え、次の瞬間、それはすぐ眼前に現れた。
「え?」
目で追えぬ速さの動きに、巨漢は刃を突き出した格好のまま唖然とした。身を引かねばと戦いた矢先、緋雄の両手に喉を捉えられ、ぎゅうと締められた。
「う、うぐ……」
息が、止まる。同時に体から何かが抜け出る異様な感覚に、巨漢は固まった。
「あ、面と同じでやっぱり不味いな」
頭から血の気が引き、視界が緋色に染まり、体から活力が消えていく。霞む意識に緋雄のおどけた響きが回るうちに、巨漢は地に崩れ落ちた。
ばたばたと仲間が倒されて行く中で、兄貴は一人、悔し気に歯軋りした。周囲の人垣からは、意外な強さを見せる二人に称賛が沸いている。
このまま全員のされては、山城一家の面目丸潰れだ。そう苦々しく思う耳に、遠くから呼子の甲高い音が響いた。誰かが番屋の岡っ引に知らせたのだ。
「チッ、これまでか。おい、テメエ等! 命拾いしたな。今日はこの辺で勘弁して……グワッ!」
負け犬の遠吠えを唸る兄貴に、燕を抱えた緋雄が、思い切り体当たりをかます。情けない悲鳴を上げた兄貴が吹っ飛ばされる間に、二人はあっという間に赤刻門を抜け、暮れかけの闇に紛れた。
三人の岡っ引が、ようやと乱闘の場に駆け付けた頃。
そこには死にかけの鮪のように横たわる山城一家の悪相共と、往来の端で腕を押さえ悶絶する兄貴が残されていた。
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