妖星ノ巻 其ノ五
その喧嘩の後から、燕は緋雄と微妙な距離を置くようになった。
喰われそうになったとは、思っていない。ただあの時見た緋の瞳を思い出す度、燕は原因不明の症状に見舞われた。
生気を吸おうとしたのか、それとも口付けようとしたのか──それを考え出すと、同時に頬が熱くなり心の臓が高鳴る。
こんな事は初めてで、もしかしたら悪い病なのかも知れないが、誰に問う事も出来ない。だが平時は元気で食欲も多分にあるから、時が経てば必ず治まる──燕はそのように己を納得させ、緋雄の前では至って変わりない振りで取り繕った。
そんなある夜の事。緋雄は粗末な夕餉を食う燕に、ふと声を掛けた。
「なあ燕。お前、人間の街に興味はあるか?」
「へ?」
「お前、前に連れてけって、膨れただろ。行ってみてえか?」
灯された暗い油行燈の元で、こちらを見る緋の瞳が悪戯気に笑っている。燕は徐に緋雄へ向き直ると、期待と不安で顔を少し強張らせた。
「本当に? でも、俺は、こんな髪だし……」
「アァ? 見てくれなら、俺が何とかしてやる。今時期は花火も上がるからなァ、ありゃあ一生に一遍は、観る価値あるぜ」
「はなび?」
「ああ、でかい川の向こう岸から、夜空に大きな華が咲くんだ。綺麗だぞ」
そう言う緋雄の顔は、本当に楽しげに見える。燕は少し迷ってから、はっきりと答えた。
「行きたい……街に、行ってみたい」
「そうか。じゃあ早速だが、明日発つぞ。善は急げってな」
「おう!」
燕はそう元気に頷くと、残りの飯を急いでかき込み始める。その張り切った様子に緋雄は苦笑しつつも、見慣れぬ風呂敷包みを渡した。その中身は狛の処で手に入れて来た、旅装束と編笠であった。
「これ、俺のか?」
「ああ、そりゃ笠だ。頭に被るんだよ」
「へえ……こうして、こうか? でもこれじゃあ、俺の髪、隠し切れねえぞ」
頭に編笠を載せた燕が眉を寄せると、緋雄はあっけらかんと笑った。
「大丈夫だ。俺が人間の目をちゃあんと欺いてやるから」
「え?」
「結界張ってやるよ」
「結界って……大丈夫かよ。俺にまで張るの大変なんだろ?」
「全然。朝飯前だ」
そう頭をぽりりと掻いて、緋雄が軽く答える。すると途端に燕は緋雄を睨み付け、口を尖らせた。
「何だよ、前におゆうと行った時には、大変なんだって言った癖に。ありゃ嘘かよ?」
「あー、そんな事言ったか、俺」
「言った! 畜生、騙しやがって」
「まあまあ、怒るな。アレは事情があったからよォ」
あれがおゆうの最後の旅になった事は、燕も判っている。それを言われては仕方無いと言うように、燕は小さく溜息を吐いて、引き続き風呂敷の中を掻き回した。
そうして迎えた翌朝。旅装束に身を包んだ二人は、塒を出て巌岳を回り西へ向かった。
生憎の曇天ではあったが、真夏の日差しがかんかんと照り付ける中を歩くよりは良い。況してや緋雄は魔物であるから、日光に当たればその分疲れも出る。故に真昼の時間帯は、少し休憩をとる事に決めた。
冗談を言い合い、寄り道をし、ついでに小競り合いもしながら歩いた、二日後の夕方。ようやと二人は目当ての城下町に入った。
「うわ……」
夕陽が長く影を伸ばした街道から、真っ直ぐ繋がる大路の、大きな橋の上で。燕は人波を避け手擦りに寄ると、緋雄の背に半分隠れた。
「何やってんだよ?」
「だって、人がたくさん居て……」
そう答えた消え入りそうな声は、かなり硬い。見れば燕は僅かに震え、いつの間にか緋雄の左の袂をしっかと握っている。緋雄は網笠で隠れた燕の顔を覗き込むと、にやりと口の端を上げた。
「何だァ、何おたついてやがる。もしかして、怖いのか?」
「こっ、怖くなんてねえって。ただ、ちょっとびっくりしただけだって」
「へえ、こんなに俺の袂引いてるくせにかよ」
「そりゃ、迷子にならねえ為だから、別に怖いからじゃねえからなッ」
そう小さく啖呵を切るが、いつもの威勢は何処かへ消え去っている。緋雄は小さな溜息を吐くと、袂ごと燕の手を握り、ゆっくりと橋を渡った。
並び立つ商店や飯屋、茶屋の前を通り、大路を東へと進む。すれ違う町人や武士を怖れながらも珍しそうに、燕はちらちらと笠の陰から盗み見て歩いた。対して前を緋雄は背を伸ばし、ごく普通に歩いている。そのうちに燕は、すれ違う女や娘らが時折、緋雄に意味深な目線を投げるのに気付いた。
確かに、長身の緋雄は良く目立つ。しかも中々の偉丈夫と来れば、目でも合わせて微笑めば、きっと女達は脈ありと見て声を掛けてくるに違いない。そう思うと、燕の内に何故だか苛々とした感情が沸いてきた。
「オイ、燕。もうちっと堂々としろよ。今のお前はごく普通の旅人なんだから、びくびくしてると却って怪しいぜ」
燕の心情を知らぬ緋雄が、のほほんとそう声を掛ける。それへ更に苛つきながら、燕は繋いだ手を尚更握り締めた。 途中でまた大きな橋を渡れば、川の上には煌びやかな、平たい船が幾つも浮いている。緋雄はそれを指さして、あれが屋形船だと燕に教えた。
「やかたぶね?」
「ああ、おゆうと来た時に乗ったんだ。懐かしいなァ」
「あの船にか?」
「おう」
凪いだ川面に光の帯を広げ、一つの船がゆっくりと動き出す。その屋形の中を照らす明るい光の下には、きっと自分の知らない楽しみが詰っているに違いない――燕はそんな羨望を向けて、川下へ過ぎゆく船を見送った。
それから緋雄に連れられ、うらぶれた小さな飯屋へ入る。そこで燕は出て来た麦飯を一口頬張り、思わず声を上げた。
「美味い!」
「そうだろう、私の飯は特別さ。さあ、たんと食べてお行き。また明日も歩くんだろう?」
人の良さそうな白髪の老婆が、木綿の前掛けで手を拭いながらこちらへ声を掛ける。その笑顔に戸惑う燕に代わって、傍らで茶を飲んでいた緋雄が適当に返事した。すると老婆は気を良くして、益々話し掛けて来た。
「あんたたち、何処から来なすったんだい?」
「隣の町だ」
「へえ、そんで、何しに?」
「上方の親戚のうちへ、祝い事にな」
「祝い事、ああ、めでたいねえ。祝言かい?」
「ああ」
「へえ、何でも上方は盛大に祝うって聞いたけど、そうなのかい?」
「おう、お陰で御祝儀貧乏になっちまったぜ」
「あらあら、それはしょうが無いねえ。だって祝いだもの、フフフフ」
老婆は何度も目出たいと言いながら、新しく入って来た客に注文を貰い、厨房へと入って行く。それを横目で見ていた燕は、小さな声で緋雄を咎めた。
「嘘ばっかじゃねえか」
「本当の事、言えってか?」
「そうじゃねえけど、色々言い過ぎだろ」
「フフフ、判りゃしねえよ」
緋雄はそう笑うと、茶をゆっくり飲み干した。そして燕がすべて平らげるのを見計らい、角卓の隅にお代を置くと席を立った。
飯屋から出て、人通りの少なくなった川縁を少し歩く。緩い夜風が吹き始め、それが笠を外した燕の頬を撫でるのが、何とも言えず心地好い。すれ違う人々は時折こちらをちらりと見るが、特にそれ以上の反応は無い。燕はようやと警戒を解き、明るい声で緋雄へ問い掛けた。
「なあ、今夜の塒は?」
「ああ、そうだな……うん、彼処に泊まるか」
そう言いながら緋雄が顎で指し示した先には、大きくて立派な旅籠があった。
その門構えはまるで武家のお屋敷のようで、見るからに一見の旅人なぞ泊まれそうもない。おまけに玄関口には丁稚が二人も控え、軒の右側には『幕府御用達』を意味する立派な看板まで上がっている。流石に世情を知らぬ燕も、その雰囲気に眉を顰めた。
「何だかすげえ立派だぜ?」
「おう」
「この埃だらけの汚い形で、あんな処入ったら、いきなり怒られそうだぜ」
「まあ見てろ。おっと、お前は喋らねえでにこにこしとけよ。判ったな」
緋雄はそう軽く言うと、何の臆面も無く丁稚に近付き、宿泊の旨を告げた。
――それから燕は緋雄の嘘八百に、ただただ黙って引きつり笑いを浮かべていた。
玄関先へ応対に出た旅籠の女将は、確かに最初は訝しげな眼で、二人を見ていた。しかし緋雄がとびきりの笑顔で、何某の禄を食む仕官の『安斉』だと名乗った途端、女将の顔は見る見るうちに弛んだ。
更に密事を打ち明けるように、女将にぐっと顔を寄せ『若に着いてお忍びで旅している』と燕を示すと、女将は慌てて番頭へ空部屋の確認をさせた。だが今夜は生憎、一番宿賃の張る離れしか空きが無いらしい。女将がしおらしく小首を傾げて伺うのに、緋雄は一つ頷き、懐から分厚い財布を取り出した。
「そこで構わぬ。内々の旅ゆえ、却ってこちらには好都合。ところで離れに風呂はあるか?」
「ええ、ええ、勿論ございますとも!」
「ではそこへ世話になろう。これは前金だ。それから、何かにと用事を頼む事になるやも知れぬ。残りはそちが取っておけ」
そう言いながら、緋雄は小判を一枚女将に握らせ、ついでにその綺麗な手をきゅ、と握った。
「まあ……」
「遠慮は、要らぬぞ」
女将は顔を赤らめると、緋雄に握られた手に、もう一方の手をそっと添えた。
まったく、何故この魔物はこうも世慣れているのか。恐らく緋雄なら人間と偽って、誰にも気付かれずにここで暮らして行けるだろう。
それにしても、金を渡すついでに女将の手までも握るとは、何とも下心丸出しの助平である。だが良く見れば、女将も緋雄の手にしっかと指を絡め、握り返したりさすったりしている。その様子にいよいよ苛々し始めた燕は、大きな咳払いを二度、三度と繰り返した。
「あ、あら、嫌だわ私ったら! ありがとうございます、安斉様。では、暫しお待ちを。すぐ番頭に案内させますゆえ」
緋雄に握られた手を、女将が頗る残念そうに離す。それを眺めながら、燕は一層不自然な引きつり笑いを浮かべた。
番頭に案内された離れは広くないものの、茶室に似た質素で品の良い造りである。燈篭が照らし出す短い渡り廊下の先には湯殿があり、番頭は急ぎ湯を張ると言うと、恭しく頭を垂れて去って行った。
「うわ、すげえな。この部屋、こんな処に窓があるぜ」
室内を探検する燕が屈みこみ、中庭を望む障子を開けて感心している。きっと設計者の洒落なのだろう、その窓は壁の下方に付いており、燕の頭がようやと通る程の小さなものであった。
それから押入れを開け、天袋を覗き、床の間の掛け軸の裏までめくる燕を見ながら、緋雄は困った様に笑った。
「おいおい、初めて来たからって、みっとも無えな。それじゃまるで飼いたての猫が、探検してるみてえだろ」
「良いだろ、そんくれえ。もう二度とこんなとこ、泊まらねえだろうし」
そう言いながらも、燕は足音高く厠へ走って行く。そうして戻って来ると、今度は卓の上に茶菓子が置かれているのを見付けて、恐る恐る齧った。
「美味い、これ、すんげえ美味い!」
「そうか、良かったな。明日はもっと色々食わせてやるよ」
「本当か?」
「ああ」
やった、と諸手を上げて喜ぶ燕は、子供のように無邪気に笑っている。緋雄は黙ってその表情を見ていたが、徐に旅装束を解くと、奥に敷かれた布団の一つへごろりと横になった。
二つ目の茶菓子を頬張る燕に背を向け、暗がりに向けられた瞳は人間を模して黒い。しかし、そこに僅かな寂寥が浮かんで見えるのは、瞳の色のせいだけでは無いようだった。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。