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妖星ノ巻 其ノ四
 夜風にざわめく森の中。高い木立の枝間を、緋雄は飛ぶように疾っていた。
 目指すは近隣の、とある村である。そこに棲む『狛』へ用があった。
 やがて森を抜け拓けた野に入ると、緋雄は立ち止り、辺りの匂いと気配を丹念に探る。それから、村の方へゆっくりと歩き出した。
「狛!」
 旧友の名を呼ぶ声が、風に流れて行く。すると遠くに影が揺れ、緋雄へ近付いて来た。
 のしりのしりと歩く体は黒甲冑を纏い、背に大きな鉈を背負っている。灰色の毛に覆われた顔は熊のようだが、大きく尖った耳と長く飛びだした鼻面は、狼にも似ている。
 狛は緋雄の前まで来ると、にんまりと笑い口を開いた。
「久しぶりだな、緋雄。また塒を変えたと聞いたが、この近くに来たとは」
「ああ、こそこそ山奥に隠れて暮らしてるぜ」
「お主らしからぬ様子だな。まあ、元々変わっておったから、今に始まった事ではないが」
「何だよそりゃ」
「気にするな。まずは茶でも飲もうか」
 狛はそう言うと緋雄を促し、自身の塒へと足を向けた。

 狛の塒は、村の端にそびえる断崖にある。案内されるまま中へ入ると、壁一面に作られた棚には、たくさんの酒瓶が並べられていた。狛はその中から一升瓶を選び出すと、胡座をかいた緋雄の向かいへ座った。
「茶じゃなかったのかよ?」
「我が家ではこれを茶と言う。主も知っているだろう。まあ、遠慮せずに飲め」
 狛はそう涼しい顔で答えると、緋雄に持たせた湯呑へ、溢れんほどの勢いで注いだ。
 まったく、この狛という魔物はよほど酒が好きらしい。
 緋雄にとって酒は寝所で女と嗜むものであって、こんな強面な魔物と差しで飲むのは、正直好みではない。だが狛は早く飲めと、金茶の瞳で圧を掛けてくる。仕方無しに口を付けた緋雄は、少し含んだ途端に思い切り顔を顰めた。
「何だこれ? 随分きっついなァ」
「我の特製だからな、どうだ、美味いだろう?」
 美味い、以外の返事は要らないという風情で笑うと、狛は自分の湯呑に注いだ酒を、一気に飲み干した。
 そうして酒を酌み交わしながら、暫し互いの近況を語り合う。やがて狛が二本目の酒に手を掛けながら、緋雄に訊いた。
「して、今夜は何用だ?」
「ああ、お前の村から、少し雑貨を分けて貰いたくてな」
「ほう。もしかして例の、人間の子供の為か?」
「何で知ってんだよ?」
 僅かに驚く緋雄を見て、狛は呆れたように小さな溜息を吐いた。
「北ノ郷の小守から聞いたと、この辺の小守が噂していたぞ。贄の女を喰らわずに生かして置いたと思えば、今度は人間の子供を拾って、育てておると。遊びにしては随分と面倒な事だな」
「……そうか。忘れてたぜ、アイツ等は結構お喋りなんだって」
 緋雄は参ったと軽く額を押え、小さな苦笑を洩らした。
 小守は北ノ郷だけでなく、この国のあちこちの森に固まって住んでいる。彼等はほとんど喋らないが、同族の間では常時、何かしらの意思伝達若しくは、情報の共有が為されているらしい。よって、例えば最南の地で起こった出来事も、一晩あれば最北の地で知る事が出来た。そこは大変有り難いから、仲良くしておくに越したことはないのだが、その情報に自分の話が含まれて居るとなれば、困ったものだ。
 小守の噂が真実だと知り、狛は半ば呆れたように尋ねた。
「緋雄よ、そんな真似をして、お主にとって、一体何の得があるのだ? それともその子供は、喰らうために育てているのか?」
「さあな、俺にも判らねえよ」
 緋雄のはぐらかすような返事に、金茶の瞳が怪訝に細められる。狛は中々減らない緋雄の湯呑みに酒を足しながら、更に話を続けた。
「穢れの子、だそうだな」
「ああ」
「どうする気だ?」
「何が?」
「人間のままで喰らうのか、それとも魔物にするのか」
「判らねえ。そもそも、本当に穢れなのかも知らねえし」
 そう緋雄が軽く答えると、狛は益々怪訝な顔をした。
「確かめておらんのか?」
「ああ」
「ほう、口付ければその『味』ですぐ判るだろうに。色事好きなお主らしく無いのう」
「余計なお世話だ!」
 そう歯を向いた緋雄を見て、狛はにやにやと笑った。その表情がまだ何か言いたげにも見えて、緋雄はこれ以上その話を振るなと、そっぽを向いた。
 狛との付き合いは、緋雄が北ノ郷に来て以来のものだ。だから緋雄が好む『贄の喰らい方』も知っていて、色事と言う表現はそれを差しているのだろう。
 緋雄にしてみれば、貰ってすぐの贄を体ごと喰らってしまう狛の喰らい方は、とてもつまらないと思う。だが喰らい方はその魔物の性分や好みがあり、どちらが良いとか美味いとか言っても、埒が開かぬ話でもある。
 狛は手にした湯呑みが空なのに気付くと、手酌でまた溢れんばかりに酒を満たした。
「何れにしろ、早々に決断した方が良いだろう。噂によれば、そろそろあの『星』が現れると言うからな」
「もうそんな時期か。何時だ?」
「具体的な日時は判らぬ。ただ、巌岳(いわおだけ)に棲む、かの陰陽師崩れからの話だから、間違いはないだろう」
「へえ……そりゃあ、大変だ」
 そう一言返事をした緋雄は、静かに目を伏せると、ゆっくりと湯呑に口を付けた。
「あの星が来たら、主とは会わぬように気をつけねばな」
「ああ……全くだ。俺も、そう思うぜ」
 緋雄は薄く笑うと、狛の言葉に頷いた。



   ***



 緋雄が自身の塒に戻ったのは、明け方であった。
 社の戸をそっと開けると、隙間から差す薄明かりの中で、黒雅の瞳が光る。近寄ると、黒雅の寝そべった腹に収まるように、燕が背を丸めて眠っていた。
「ご苦労さんだったな、黒雅」
 屈んでその大きな頭を撫でると、黒雅は眼を細め、小さな唸りで答えた。そして燕からそっと身を離すと、闇に溶けるように消えて行った。
 独り寝床に丸まった燕は、深い眠りに入っているらしく、静かな寝息を立てている。隣に胡坐をかき、その無防備な顔を眺めるうちに、緋雄の脳裡に狛の言葉が過った。
 口付れば、すぐに判る――つまり生気を吸えばその味で、燕が人間か否かすぐに判ると言う事だ。
 今まで緋雄は、どちらでも良いと思っていた。共に暮らして来た日々は面倒が多いものの、独りで居るよりも楽しい。それに燕は(これは不確定な情報からの推測だが)ようやと元服出来る年頃に達したばかりである。しかも本人は人間だと、頑なに信じている。ならば、それをわざわざ確かめる必要は無いと思っていた。
 無論この先もずっと、このまま暮らせるとは思わない。人間は脆弱で寿命も短い。その上、いつ燕の気が変わり、緋雄の手から離れて行くかも判らない。そして、それは緋雄も同じだ。もしかしたら何処かで気が変わって、燕を喰らってしまうかも知れない。
「ん……」
 燕がもぞもぞと上掛けを抱きながら、仰向けに寝返りを打つ。その瞼は未だしっかりと瞑られ、時折長い睫毛が揺れる。ふと緋雄は、燕に触れてみたくなった。
 ――こういうのを『魔がさす』と言うのだろう。
 何の考えも無しに緋雄は右手を伸ばし、燕の顎を軽く押さえた。そうしてゆっくりと、燕の顔の上に屈み込み、その薄い唇に己のそれを寄せる。一寸足らずまで近付いても、燕は目覚める気配すら無い。間近で見たその肌は白く、艶やかで肌理が細かかった。
「女だったら、良かったのになァ……いや、女じゃ無くても、良いか」
 緋雄がそう言ちながら、親指の腹で薄い下唇をなぞると、不意に燕の瞼が開いた。
「っああああッ、な、何だテメエッ!」
「ぐわっ!」
 驚き叫んだ燕が動転したせいか、思い切り起き上ろうとする。その途端、ごん、と鈍い音が響き、同時に燕と緋雄の額に激痛が奔った。
「痛ってえ……酷え、この糞餓鬼が」
「うっ、つう……何言ってやがる、つうか、お前何し……まさか!」
「アァ?」
「俺に、俺にせ、せっ……」
「安心しろ、まだしてねえ」
「うわああぁ!」
 いきなり叫ぶと、燕はばね仕掛けの玩具のように飛び起き、社の壁に張り付いた。そしてその驚愕の表情が、見る間に真っ赤に染まっていく。
 まさかこれ程の反応をされると思わず、緋雄が唖然とする前で。燕は少し緩んだ着物の衿を掻き合わせると、思い切り怒鳴った。
「こっ、この犬野郎、盛りでも付きやがったかよッ!」
「盛り?」
「俺に近付くな、助平、変態!」
 あんまりな言われ様である。流石に緋雄もひくひくと眉を震わせ、低く唸った。
「オイ、そこまで言うかよ」
「アァ? もっと言ってやろうか、この戯け犬が」
「んだと、この餓鬼。言いたい放題言いやがって」
 立ち上がった緋雄は額に血管を浮かせ、怒りの笑みを浮かべて燕を睨み付ける。それに怯まぬ燕は足を踏ん張り、歯を剥いて拳を構えた。

 夜明け前の静かな一時に、社から喧嘩の騒がしい音が響く。それは朝陽が顔を出す頃まで、辺りに響いていた。



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