木々の間を細く長く這っていた夕陽は既に落ち、先程まで僅かに顔を見せていた半月も、今は雲に飲まれ姿を消している。
深い闇の中で揺れるのは、古ぼけた社の前に灯された、小さな篝火。その鳥居の傍には一対の黒い狛犬が鎮座し、社からは薄暗く揺れる光と、人の気配が洩れていた。
地元の人間は普段、滅多に此処へ寄り付かない。それは此処がこの村の霊場であり、立入り自体が禁忌でもあるからだ。此処が使われるのは、十年に一度。あの黒い魔物と、代々の村長が交わして来た『契約』の刻だけである。
其れが始められたのは、かの魔物が此地に現れた頃からと言われているが、具体的な年月は定かではない。しかしその魔物との『契約』は村にとっては必要であり、また悪でもあった。
人外の力に対し、人間のそれは余りに弱い。それが人の魂を喰らう程の魔物が相手なら、尚更である。
例えば、それに襲われたとして。退魔の力を持つ陰陽師や僧侶を擁する、財力のある村なら対処に困らないだろう。しかし大半の小さな村は、祈祷料すら支払いに困るような、貧しい暮らしをして居た。そうした貧村が身を守るため選ぶのが、力有る魔物との『契約』である。
この北ノ郷村に於いては十年毎に、魔物に『一番の好物』である生娘を一人、贄として差し出していた。その代わりに魔物は次の贄を喰らうまで、村に近寄る危険な魔物を追い払い、村人を影から守護する。勿論村も、時の幕府には緘口し『魔物狩』から護る事を誓う。
そして、今夜がその『契約』の最終日。
今後十年の、村の安泰の為に。社の中で息を殺し一人震えるのは、これから贄となる生娘であった。
無風の闇に、何処からともなく足音が響くのを聞き付けて。角隠しを被り、美しく着付けられた白無垢の細い喉が、こくりと唾を飲んだ。
足音は徐々に近付き、社の前で一旦停まると、じゃり、と軟石の石段を鳴らし上がる。そしてやがて、白無垢が背を向けて座る扉の前で停まった。
きい、と開けられた扉から淀んだ社の中へ、正座した裸足の爪先を舐めるように、冷たい夜気が流れ込む。しかしそれよりも早く背筋を凍らせたのは、その戸口に立つ魔物こと『黒牙乾』の、二目と見られぬ恐ろしい姿──の、筈だった。
「よお、ご苦労さん」
やたら明るい挨拶に飛び上がった白無垢が、慌て振り向く先には。身の丈六尺を優に越え、派手な緋蛇皮の襟巻に、烏黒の半着袴を着た偉丈夫が、にっこりと手を挙げていた。
「ああ、寒いなァ。何だよ、火鉢も置いて貰えなかったのか。可哀想になァ」
黒牙乾はそう眉を寄せながら、よいしょと身を屈め上がり込んだ。
想像していた醜怪な、生臭く黒い体毛に覆われた姿とは、余りにも掛け離れている。伝え言われる鋭い牙も口焔も、長く太い大蛇のような黒い尾も無い。紫がかった長い黒髪と緋の双眸を除けば、何処から見ても『人間の男』に見えるのを、白無垢は何度も眼を擦り上げ見詰めた。
「何だよ、何吃驚してやがる? ああ、俺が余りにも人間そっくりだからか?」
隣に座り込み、覗き込む緋の瞳が怖いのか、それとも近付けられた精悍な顔に照れたのか。袖口を顔に当て隠れる白無垢の可愛らしい仕草に、黒牙乾は気を良くして話し始めた。
「俺は、人間から勝手に黒牙乾って呼ばれてる。おっと、いきなり喰わないから、安心しなよ」
黒牙乾はそう言って更ににじり寄ると、やおら逃げる白無垢の肩に、馴れ馴れしく手を回した。しかし直ぐに、背けた首筋のあたりを一嗅ぎし、頭を捻った。
「ん? お前……本当に女か? いや、一体何だ……っと!」
突然鋭い風が鼻先を掠め、その長い髪の先を僅かに斬られた。
慌てて身を翻し、その体躯に合わぬ俊敏さで、腰の太刀に手を掛け構える。同時に飛び離れ、構えた白無垢の細い手には、短い脇差が逆手に握られていた。
じりじりと、睨め合う。そのうちに、黒牙乾が低く唸った。
「テメエ、一体何だ?」
「……」
「俺に刃を向けたって事は、この村はもう、契約は結ばねえって、思って良いんだな?」
そうにやりと黒牙乾が笑い、ふるり、と軽く頭を揺らす。すると、長い髪の間から黒い獣の耳が現れ、白無垢を威嚇するように立てられた。
「あーあ、せっかくの贄だから、怖がらせずに仲良くなろうと気を遣ったのによ。全く、気ぃ悪りいなァ。で、どうすんだよ、そんなもん俺に向けてよ?」
「……お前を、殺す」
やっと発した白無垢の声は震えていたが、女にしてはしゃがれ、男にしては甘く高い。例えれば、丁度変声期を迎えたばかりの少年のようでもある。そのせいか、角隠しの奥から殺気を放つ白無垢の正体に、黒牙乾は興味を抱いた。
「ウオオォッ!」
逆手の刀を左腰に構え、白無垢が気合いを発し動く。そして懐に突っ込んだが、黒牙乾は左手一つで交わし、勢い余ってよろめく白無垢の腕を容易く捕えた。当然だ。たかが非力な人間、それも脇差一本でなぞ、魔物を殺せる訳が無い。
黒牙乾は藻掻く白無垢から脇差を取り上げると、体で圧し下がらせ壁に追い詰めた。そして、その両手を掴んで高く掲げ、重ねた掌に素早く脇差を突き立てた。
「ぐあああ!ああっ、はっ、うう……」
「ククク、親から礼儀を教わらなかったのかよ? 初顔の相手に向かってこんな真似しやがるなんて、随分躾がなって無えな」
「……っ、うる、せえっ!」
両掌を己の刃で貫かれ、その痛みに苦鳴を洩らしながらも、白無垢は未だ射るような眼を向けて来る。それに取り合わず、黒牙乾は目深に被った角隠しを掴むと、勢い良く剥いだ。
「!」
「――へえ」
白布の下から現れたのは、蝋燭の光に鈍く輝く山吹のざんばら髪と、苦痛に歪められた露草の瞳。その鮮やかさに黒牙乾は驚いて、次ににたり、と笑った。
「これはこれは、何てえ可愛らしい餓鬼だ。毛唐か、その合いの子か、それとも穢れか?」
「ちく、しょう……離せっ!」
「暴れんなよ、傷が広がるぜ。しかしお前、本当に何者だ? 嗅いだ事の無い匂いしやがって」
「……」
「俺、昔っから鼻だけは良く利くんだけどなァ。男か女かすら、区別が出来ねえ。なあ、どっちよ?」
「……」
「……返事する気、無えってか。はーん、本当に生意気でやんの」
チリチリと黒牙乾の、腰の太刀が抜かれる。その黒く鋭い刀身に戦く子供を、黒牙乾はためらいも無く斜に薙いだ。
「うっ!」
二重に巻かれた白無垢の帯が、ぱらりと割れ足元に落ちる。それから刀を鞘に戻すと、ぐっと眼を瞑った子供の顔を覗き込んだ。
「太刀筋は悪く無えが、いかんせん力が無え。刀の修練だって、付け焼刃だろ。誰の差し金か知らねえが、これで俺を殺るなんざ無理だって。お前だって、判ってんだろ?」
「はっ、はっ、はっ……」
「だが、その気迫だけは、認めてやる」
グイと大きな手に顎を掴まれ、子供は荒い息を吐きながらも、その緋の瞳を睨み付けた。
板壁に縫いつけられた痛みが、恐怖と共にじくじくと子供を甚振る。気が遠くなるのを必死に堪えて、戦慄く薄い唇をきりきりと噛み締めた。掌が脈打ち痛みを刻む度に、立ち込めて行く錆びたような血の匂い。それを一嗅ぎした黒牙乾は、縫い付けられた掌に顔を寄せた。
「うん、若い血は、やっぱ美味えなァ」
滴る血に染まる、蛇のように裂けた舌先が、何か別の生き物のように蠢く。
舐め上げられる度に、子供の心は恐怖に駆られ、痛みと相まって冷汗に代わって行く。そうしてふるふる体が震え始めたのに気付いて、黒牙乾は再び子供に鼻を近付けた。
「しかし、どうしても解せ無え。俺の鼻でも、嗅ぎ分けられ無え奴が居るなんてな。どれ、体はどうなってんのよ?」
「……っ!や、止めてっ!」
嫌がる襟元を力尽くで広げると、その中は細くて色の白い、若い男子の胸板があった。しげしげと不躾に覗かれ、子供が思わず顔を背ける。何をそんなに恥ずかしがるかと、黒牙乾の低い声が嗤った。
「やっぱり男、かァ? いや、化けてるって事も有るしなあ」
「男、だ……俺は、男だッ」
「本当かよ?」
「本当、だから、止めて……」
「俺は、謀る奴は信用しねえ。覚えとけよ、餓鬼」
その声と共に黒牙乾の膝が少年の足を割り、乱れた白無垢の裾に手を滑り込ませる。そのまま隠された太股をなぞり上げ、固く巻かれた下帯の中へと指を潜らせた。
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